光英・元夀・舒蘇鄂博・廣陽
- 海陵の后圖克坦氏は太子光英を、元妃大氏は崇王元夀を、柔妃唐古氏は宿王舒蘇鄂博を、才人南氏は滕王廣陽を生んだ。
- 光英(本名阿里布)は太祖以来の功臣百七十六人を招いた盛大な儀礼を経て天德四年(1152年)皇太子に立てられた。海陵は「英」の字が鷹隼に通じるとして鷹坊を馴鷙坊に改称するなど過剰な避諱を行い、太子を溺愛しつつも「上智は学ばずして成るが、中性は学ばねば成らない、太子には碩徳の学者を選び古今の防過失を知らしめよ、詩文の小技より騎射も習わせるべき」と教育に配慮した逸話が残る。海陵の伐宋出征に際し太子は居守を任されたが、完顔元宜の軍変で海陵が弑逆されると、都督府は図們額哩頁に命じ光英を汴京で殺害させた、享年十二。海陵とともに大房山の諸王墓に葬られた。
- 元夀は天德元年崇王に封ぜられ天德三年(1151年)薨じた。
- 舒蘇鄂博は乳母実達爾東勝家に養われたが正隆三年(1158年)に幼くして薨じ、海陵は太医副使らを罰し、諫議大夫楊伯雄が「宿王の死は宮外での養育のためではないか」と側で語ったことが伝わると海陵に厳しく叱責されつつも赦された。
- 滕王廣陽の母南氏は元妃大氏の婢であったが海陵の寵を受け、正隆二年(1157年)廣陽を生んだがこの年薨じた。
史論(海陵の諸子について)
- 賛にいう。海陵は伐宋に際し光英に居守を任せ、図們額哩頁に宮師と統軍を兼ねさせるなど周到を期したが、まさか自らの手(の配下)によって我が子が死ぬとは思いもよらなかったであろう。荀首の「人の子を我が子として扱わなければ、我が子もまた同じ扱いを受ける」との言葉通り、海陵は他人の子を魚肉のように扱いながら、自らの子だけは無事であることを図った、それが叶うはずもなかったのである。