正義を貫いた外交官
- 易州易県の人。過目不忘の記憶力で経史に通じ、遼の進士に及第、樞密院令史から興平に隠棲した。太祖が燕京を宋に割いた際、宋人の招聘を拒み隠居を続けたが、宗望の燕京再取後、劉彦宗の知遇で樞密院主奏となり、天会四年尚書省新設で工部侍郎兼六部事となった。高慶裔の磨勘法で免官された際も遼王宗幹に「多士がみな去った以上、私だけが用を求める理由はない」と自ら求職しなかったが、宗幹に評価され中京副留守に復した。詔諭江南使として宋に赴いた際、宋主が「南面」「北面」の位置取りで使者を貶めようとしたのに対し「天子が河南陝西を賜り、宋が奉表称臣を約した以上、使者を北面させるのは筋違い」と毅然と拒み、宋主に東西の位置を改めさせて礼を貫いた。宋が河南に戍兵を置いた不誠実を送伴の韓肖胄に厳しく指摘し撤兵させた功績もある。宋への再征では汴での偽情報を看破し(「宋人は先んじて言いふらす、それが逃げる前触れだ」)、宗弼から「誰が書生に兵事が分からぬと言ったか」と称賛された。
- 熙宗の代、河南の孫進が「皇弟按察大王」を詐称した謀反未遂事件で、海陵が胙王常勝を陥れようと画策した際、通古は無実を明らかにしようと極力弁じたが、孫進の自白(本人は実在せず、名を騙って財を集めただけ)を海陵は塔斯への讒言に使い、結局胙王・塔斯は殺された。行台の同僚から「君に誤られて死ぬことになる」と責められた通古は「正しさによって罪を得るなら、生きるより死ぬ方が優る」と答えたという(実際は坐罪は塔斯のみに止まった)。行台左丞・平章政事・譚王・鄆王・司徒・瀋王を歴任、海陵の厳酷な統治下でも礼を尽くして遇された。僧法宝を巡る事件で他の大臣とともに海陵の叱責を受けたが、通古の名は「三教に通じた老成の儀表」として名指しで評価された。正隆元年(1156年)致仕、曹王を進封されたがこの年六十九歳で薨じた。楽易な性格で表向きを飾らず、宰相の地位にありながら寒素な暮らしを守った。子は沉。