遼の忠臣から金の重臣へ
- 遼の樞密使托卜嘉の孫、遼帝の護衛を務め、遼帝の西走に随従した際、母(遼道宗の末娘)を氷雪の中で守り六日間食を絶って仕えた孝行の逸話が残る。太宗に「その主への忠に金は特に礼遇する」と称えられ、宋人から遼への内応を求める蜜書を託された際、これを宗望に献じてその潔白を証明した。右宣徽使・都点検を経て、宗磐が熙宗の前で宗幹に刀を向けた際にこれを呵り止めた功で銀青光禄大夫、蘭陵郡王・平章政事・濟王を歴任、天德二年越國王に至り六十一歳で薨じ貞簡と諡された。子は拱。
- 拱(本名達年鄂博)は海陵に取り立てられ礼部侍郎となったが、妹(耶律密哷)が海陵の妃候補となる不吉を父仲恭に予見され「上は猜疑が多い、お前は禍を被るだろう」と案じられた通り、密哷の入宮後まもなく仲恭の卒去とともに疑いをかけられ、蕭恭・張九の事件に連座した誣告(アナルとの怨恨)により処刑された。
- 仲宣(本名伊里布)は仲恭の母弟で、遼帝の西走に母とともに随従し捕われたが、太宗に遼の故事に通じることを評価され宣徽使を代行、順義・永定・昭義・武寧の四鎮節度使を歴任、清廉な統治で百姓に祠を立てられ六十四歳で卒した。