金史卷七十六 列傳第十四 宗幹

金初制度の建設者、後に廟号を剥奪

  • 太祖の庶長子。伐遼の際、境上の戦いで先陣を率い塹を埋めて渡渉を助け、太祖に諫めて杲の軽率な出陣を止めさせた。達嚕噶城の戦では中軍を疑兵として用いた。太祖の黄龍府攻略後、春州攻めを止めて士卒を休ませるべしと進言しこれが容れられ、春泰州・金山県の未降部族を招諭した。臨潢府攻略後、太祖の沃赫河への深入りを「糧餉が続かず後の艱難となる」と諫めて班師させた。都統杲の中京攻略では、希尹の情報を活かした宗翰の再三の献策を杲に容れさせ(「彼は既に発兵している、中止すべきではない」)、これが遼主追撃の決断を後押しした。太宗即位後は古倫貝勒として舍音とともに輔政、天會三年遼主を捕えた後、礼制度・官名・服色・学校・選挙・暦法の制定はいずれも宗幹の発議から始まったとされる。天會四年、官制が定められ天下に頒行された。天眷二年太師・梁宋國王に進み、皇統元年輦輿での上殿を許され、上京行幸に随従して病を得た際は熙宗自ら見舞い、崩御に際しては上(熙宗)が輟朝七日と哭泣を尽くした(大臣死去の輟朝は宗幹に始まるという)。海陵は簒立後、憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝の諡・徳宗の廟号を追贈し旧邸を興聖宮としたが、大定二年、世宗は廟号を除き明肅皇帝に改諡、さらに海陵が庶人に廃された後の大定二十二年、皇太子允恭の上奏(「海陵の逆配は正されるべきであり、宗幹(明肅)もまた縁坐すべきだが乱には与っていない、帝号のみ削り旧爵に戻すべき」)により、明肅帝号は削られ皇伯太師遼王・忠烈と改諡された。妻子・諸孫も降格されたが、明昌四年(1193年)太祖廟庭への配饗が認められた。子は充・亮(海陵)・兖・襄・衮。