金史卷七十五 列傳第十三 左泌

企弓の子孫

  • 泌(字は長源)は企弓の長子。遼で棣州刺史に至り太祖の燕平定に従い、父が張覺に殺された後は自ら間道を経て金に帰参、宗望の伐宋に従い真定攻略で功を挙げ、陝西路転運使・戴國公に至った。年六十一で早々に致仕を願い「三十で旄鉞を秉り、また三十年の仕官、名を遂げ身を退くべし」と語り、時人はこれを高く評価した。享年七十四で卒した。
  • 淵は燕京副留守・中京路都転運使・河北東路と中都路の都転運使を歴任したが、漕運の職を利用して私財を蓄える貪鄙な人物で、李通・許霖と結託し賄賂を貪った。世宗即位後、子貽慶を通じて進士に及第させたが、世宗は淵に「殿位の設営は旧に依り増益するな、百姓を煩わせるな」と戒め、泌南軍節度使への転任時にも「漕司在任を朕は甚だ卑しんだ、再び刻削すれば二度と用いない」と釘を刺したが、懐州で以前の中都転運使時代の官材木盗用が発覚し除名された。
  • 光慶(字は君錫)は淵の子で幼くして聡明沈厚と評され、閤門祗候から西上閤門副使・東西上閤門使兼太廟署令を歴任、篆隷に長け大字を能くし、世宗の郊礼受尊号や受命宝の篆書、宮廟の扁額などを多く手掛けた。原廟・坤厚陵・寿安宮の工役を苛烈にならぬよう均等に差配し、同知宣徽院事・少府監・右宣徽使を歴任、上京行幸時の儀仗制度を整えたことも評価された。二十五年(1185年)享年五十一で卒し、上は使者を遣わし厚く祭った。晩年は仏法に帰依し自ら真贊を作るなど任達な性格であった。

史論(左企弓ら四臣について)

  • 賛にいう。左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼の四人はいずれも才識ある士であった。遼に仕えては幾度も建言し、爵位を受けては両国に身を捧げたが、逆党の手に落ちて命を落とした。三者ともに機を失した、哀しいことである。