金史卷七十五 列傳第十三 左企弓

燕京の遼旧臣

  • 左企弓は八世祖左皓が後唐の棣州刺史として燕を戍したことに始まる家系。進士に及第し来州観察判官・中京副留守などを歴任、獄事の冤罪を正すことで知られ、知樞密院事として金軍が上京を陥落させた際にも軍政を隠さず遼主に上奏、遼帝の避難諫止(聞かれず)を経て、遼主廃立後は耶律聶哷政権下で司徒・燕國公として虞仲文・曹勇義・康公弼らとともに燕京を守った。太祖が居庸関から燕京城下に迫ると、企弓らは初め事態を知らず表を奉って降り、太傅中書令として復職した。太祖が燕京を宋に与える約に対し企弓は「君王よ燕を捨てる議を聴くな、一寸の山河は一寸の金である」との詩を献じたが容れられなかった。張覺が平州で異心を抱いていたため太祖は企弓らに護衛を付けようとしたが「かえって乱を促す」と辞退し、平州通過中に張覺に殺害された。享年七十三、恭烈と諡され、天会七年太師を追贈、正隆二年特進・済國公に改贈された。
  • 虞仲文は武州寧遠の人。七歳で詩を作り十歳で文をなす秀才で、進士に及第後、亷能で知られ起居郎・史館修撰などを歴任、党派とみなされることを恐れず左遷された宰相を送別する義を貫いた。中書舎人・樞密直学士・翰林侍講学士に至り五十五歳で卒し文正と諡され、天会七年中書令、正隆二年特進・濮國公を追贈された。
  • 曹勇義は広寧の人。進士出身で樞密副都承旨・燕京三司使・給事中・樞密副使・太子少保を歴任、宣政殿大学士に至り文荘と諡され、天会七年太保、正隆二年特進・定國公を追贈された。
  • 康公弼は応州の人。二十三歳で進士に及第、著作郎・武州軍事判官を経て寧遠令として旱害の民のために課税を免除させ生祠を立てられた。乾州節度使に至り忠粛と諡され、天会七年侍中、正隆二年特進・道國公を追贈された。