金史卷七十六 列傳第十四 宗固

太宗の諸子(総論)

  • 太宗には十四人の子があった。富勒呼(宗磐)・呼嚕(宗固)・呼拉布(宗雅)・阿嚕岱(宗順)・阿里布(宗偉)・呼沙呼(宗英)・阿林(宗懿)・阿嚕(宗本)・呼蘭(翼王)・和爾察(宗美)・實圖美(鄆王)・哈必蘇(霍王)・沃哩(蔡王)・和碩(宗哲・畢王)である。

宗磐(本名富勒呼)――専横と誅殺

  • 天輔五年、都統杲の中京攻略に幹魯・宗翰・宗幹とともに副将として従い、天會十年(1132年)古倫烏赫哩貝勒、熙宗即位後は尚書令・宋國王、まもなく太師として宗幹・宗翰と三省事を領した。宗翰没後は日ましに驕り、宗幹と朝廷で争論して上表辞任を求めるほどで、烏頁が「陛下はまだ若く大臣が不和では国の福ではない」と諫めても収まらず、ついに熙宗の前で宗幹に刀を向け都点検蕭仲恭に止められる事件を起こした。左副元帥達蘭・東京留守宗雋と結び、宗雋を右丞相に押し上げ、達蘭が河南・陝西の地を宋に与えるべしと唱えた際、宗室大臣がこぞって反対する中、宗磐・宗雋だけがこれに賛同しついに割譲を実現させた。その後、宗磐・宗雋・達蘭は謀反を企てたが宗幹・希尹に発覚し、熙宗の詔により誅された。皇后の誕生日に楽を止め「宗磐らは近属でありながら逆謀を企てた、楽しめるはずがない」と述べた。

太宗諸子の封爵と粛清

  • 天會十五年燕京留守・豳王に封ぜられた。同世代の兄弟には代王宗雅(呼拉布)・虞王宗偉(阿里布)・滕王宗英(呼沙呼)・薛王宗懿(阿林)・原王宗本(阿嚕)・翼王呼蘭・豐王宗美(呼爾察)・鄆王實圖美・霍王哈必蘇・蔡王沃哩・畢王宗哲(和碩)がおり、いずれも天眷元年に封を受けた。宗順(阿嚕岱)は天會二年(1124年)薨じ皇統五年金紫光禄大夫を追贈、後に徐王を追封された。宗磐誅殺後、熙宗は宗固の子京を燕京へ遣わし慰諭したが、まもなく翼王呼蘭が行台左丞相達蘭らと謀反し伏誅、太宗の諸子は降封され「皇叔の称は用いぬが、これを断絶するには忍びない」との詔が下された。皇統二年宗雅を代王に復し、宗固は判大宗正、三年太保右丞相兼中書令となりこの年薨じた。