燕山・汴京を陥落させた快進撃の将
- 太祖の次子。常に太祖に従軍した。都統杲が中都を陥落させた後、宗翰が北安州で遼護衛実納埒を捕え遼帝が鴛鴦濼にいることを知り襲撃を請うた際、宗望は敵の捕虜を尋問して虚実を確かめる策を取り、生擒した五人から遼帝がなお鴛鴦濼を去っていないことを確認し進軍を促した。太祖に「陛下ご自身の軍中臨御を諸将は望んでいる」と述べ、遼帝が大魚濼にいると知るや普嘉努とともに前鋒四千で昼夜兼行、石輦駅で追いつき(味方はわずか千人)、遼の二万五千の軍相手に短兵接戦、包囲攻撃で遼帝を敗走させた。さらに隂山・青塜間の追撃では、遼都統林牙達実を捕えて道案内とし遼主の営に直入、遼太叔以下多数の宗族・重臣を捕虜とし(伝国璽も後に太祖に献上)、太祖から「これは群臣の功」と称えられた。遼の元帥燕国王の印を得た降表を受け、夏国への招諭も行った。
- 棟摩の張覺討伐(南京城東の戦いで大敗させ張覺は宋へ逃亡、後に父子を捕らえ処刑)、南京(燕京)攻略(都統張敦固を降し殺害)を経て、宗望は南京路都統として自ら伐宋を上奏(「先んじなければ後患となる」)。棟摩を都統に立て自らは監戦として三河で郭薬師の四万五千を破り、燕山府を攻略、真定を陥落させ知府李邈を捕えた。天会四年正月、諸軍で黄河を渡り汴京を包囲、宋少帝が伯姪の礼と歳幣増額・三鎮割譲を約して講和したが、その後宋の姚平仲軍四十万の夜襲を撃退し再び汴城に迫った。宋の裏切り(伊都・蕭仲恭への密書)が発覚し再伐、雄州・中山・高陸・広信・天威軍を次々に破り真定を陥落、大名の諸県も克して汴に迫り、宗翰と合流して汴州を陥落させ宋少帝が軍前に降った。二主とその宗族四百七十余人、璽印・祭器等を伴い北還した。
- 天会十三年(1135年)宗望は薨じ、魏王を封ぜられ、皇統三年許国王、のち晋國王に改封、天德三年太師・遼燕國王を追贈され太宗廟庭に配饗、正隆二年例により降封、大定三年宋王に改封、桓粛と諡された。子は齊・文・京。
- 遼の節度使和尚・林牙瑪格の子慎思が捕らえられた際、和尚の弟道温(興中尹)を招降しようとしたが道温は「兄は忠を尽くして辱められるより死んで栄えることを選んだ」と拒み、宗望は馬和尚に道温を捕らえさせ処刑した。
- 齊(本名舒蘇)は宗室子として近属の恩顧を受けたが凡庸で才能なく、大定三年節度官を罷めるも三品俸を給された。弟の文・京はともに謀反により誅され、世宗はその家財産をすべて齊の子耀珠に与えた。
- 文(本名呼喇)は世襲穆昆・奉国上将軍として中京に居たが、海陵簒立後は左淵の悪事に連座し杖罰と除名を受けた後、翰林学士承旨・秘書監・王封を経て英王に至った。だが大名尹在任中、明安穆昆の良馬を悪馬とすり替え、民の物を安く買い、公用の徭役を私するなどの不正が発覚し爵位を奪われ徳州防禦使に落とされた。失意から日者康洪に運勢を占わせ、南京路の明安らが自分に従うとの家奴の偽りの報告を信じて謀反を計画したが(陣図を描かせるなど)密告により発覚、大定十二年(1172年)逃亡ののち十二月に捕らえられ誅殺された。世宗は「太祖の孫は幾人も残っていない、寛大にしてきたのに謀反とは何と狂悖なことか」と嘆いた。関係者への処罰と、以後宗室・官職三品以上の相命占いの禁止が定められた。
- 京(本名呼嚕)は宗室子として累進し翰林学士承旨・開府儀同三司・工部尚書・礼部兵部・判大宗正事・曹王を歴任、正隆二年瀋國公・北京留守を経て益都尹在任中、酒宴の罪で灤州刺史に降され、海陵は護衛を遣わし絳州で殺そうとしたが京は逃れ世宗即位後に帰参し判大宗正事・寿王となった。日食に際し伐鼓の礼を代行させるなど世宗に厚遇されたが、妻が日者孫邦榮に運命を占わせ、邦榮が図讖を偽作して「留守官は太師・王爵に至る」と唆したことから謀反の疑いをかけられ、大定五年(1165年)、その企みが発覚した。世宗は「海陵が無道であっても光英(斉王)を保全した、京らをなおさら」として夫婦とも死を免れ杖百・除名の上、嵐州樓煩県に安置された。十二年に兄の文が謀反で誅された際も世宗は「天下の大器は有徳の者に帰す、海陵の失道で朕がこれを得た、修徳あるのみ」と京を赦し続けたが、皇太子の諫言もあり最終的に京は召し返されることなく終わった。
史論(宗望について)
- 賛にいう。宗望は平州から発して白河で戦勝し席巻して南下、風のごとく電のごとく兵に留滞なく、二ヶ月ばかりで汴京を包囲するに至った。これぞ「敵の対抗できぬ者」というべきか。信徳を取って兵を留め後拠としたのは決して軽々しい判断ではない。管子のいう「絶地を径行し恃固を攻め、独り出入りして誰にも止められない」とは、宗望のことをいうのであろう。