臨潢の吏才
- 盧彦倫は臨潢の人。遼の天慶初め、留守蕭貞一に材幹を見込まれ殿直勾当兵馬公事となった。珠赫店の敗戦で臨潢に散った遼兵が民家に寄食し暴虐を働いた際、留守耶律徹格爾が黙認する中、彦倫だけは「民間の財力は既に困窮している、番漢の民はいずれも赤子、これを奪ってあれに与えてよいのか」と諫めた。金軍が臨潢を取った際、旧知の辛額特埒を殺してしまったが遼は彦倫を団練使とした。天輔四年(1120年)、留守托卜嘉に従い降ったが托卜嘉が叛くとこれを逐い城中の契丹人を殺した。以後、新城の経営、静江軍節度使、少府監兼都水使者などを歴任、悼后に取り入り侍衛親軍馬歩軍都指揮使・礼部尚書・特進・郇國公に至り、天德二年大名尹、燕京宮室の造営を任され六十九歳で卒した。
- 子の璣は客省使・東上閤門使などを歴任、宋への歳元使も務め、明昌四年(1193年)七十歳を超えても朝参を許され、章宗にも眷遇され泰和六年(1206年)八十歳で卒した。
- 孫の亨嗣は各地の税務官を歴任、貞祐年間には莒州刺史として楊安兒討伐にも従軍し興定二年(1218年)六十一歳で卒した。祖廕を弟亨益に譲るなど兄弟の友愛が篤かった。