金史卷七十三 列傳第十一 阿里罕

伐遼を決断させた重臣

  • 景祖の第八子。十八歳のとき、拉必瑪察の反乱鎮定を助け、烏木罕討伐、薩哈に従う埒克討伐で功を挙げた。太祖が蕭哈里を捕えた際は遼へその首を献じる使者となり、太祖の伐遼を実際に主導した一人であった。太祖が遼への即位・建号を躊躇っていた際、普嘉努・宗翰らとともに「今こそ号を建てねば天下の人心をつなげぬ」と勧進した。太祖即位後、宗翰と耕具九器を献じ「陛下に稼穡の艱難を忘れさせぬため」と祝った。聡敏で弁が立ち、見聞を終生忘れず、色克とともに国朝の系譜を編んだ。天輔三年(1119年)病床にあっても国事を案じ、良馬を殉葬に用いる俗を禁じるべきと進言し、自らの戦馬を献じ、四十九歳で薨じた。上は「臨終に乱れず国家を思う、真の賢臣」と哭礼を尽くした。熙宗の代に隋國王を追封、天德中に開府儀同三司・隋國公に改贈、大定間に太祖廟庭に配饗、剛憲と諡された。子は賽音鄂倫(子は宗尹)。