泰州経営と対高麗鎮撫
- 尼楚赫とともに遼へ阿蘇引渡しを求め、太祖の伐遼決断の一因となった。博勒和の居庸関攻略後、蕭妃を古北口まで追撃、のち臨潢府の軍帥として塔喇討伐、遼の降人を泰州へ徙す策を進言(暑気を避け嶺西に一時留めることを献策)、新城を珠敦城に築いた。烏庫哩部の帰順に際しては便宜により官爵を授与し、降附の労八百九十三人の叙功を差配した。天輔六年(1122年)、完顔慎思の部及び未編の明安穆昆戸口を通閲、天會十年(1132年)南京路軍帥司を東南路都統司に改めた際その都統となり治所を東京に移し高麗を鎮めた。
史論
- 賛にいう。金の疆土開拓において斡魯・烏楞古の功が方面軍として最も早く著れ、博勒和・羅索は泰州の辺圉・黄龍府の要衝を最も早く固めた寄せて重い任であった。棟摩の南路における勤労、羅索の陝西経営、尼楚赫の太原囲守の労もまた至れりというべきである。烏楞古の不治、棟摩の敗戦への譴罰の速やかさに諸将は慴伏した。弱小をもって遂に彊大を制した効験は、尼楚赫・實古納が敵国を観察してその可伐を知ったことにも表れている。古語に「国には八観あり」というが、まさにこれをいうのであろう。