金史卷七十一 列傳第九 宗叙

河南経略と直言の臣

  • 棟摩の第四子。天德二年護衞に充てられ、以後翰林待制・国子司業・符宝郎などを歴任、大宗正丞・侍衛親軍馬軍都指揮使に至った。契丹薩巴の反乱に際し咸平尹として奉表帰順し寧昌軍節度使となったが、寡兵で契丹軍に囲まれ捕虜となり、百余日後に脱出、賊中の虚実を得て帥府に献策した。元帥完顔黙音の掠奪を憂え軍職を固辞し、機密を直訴するため京師に赴いたが上に叱責されつつも意見は容れられ、兵部尚書・左翼都統として布薩忠義の右副元帥軍を助け、花道の戦いで敗走する友軍を支え斡罕・七渡河の戦いにも功を挙げた。以後右宣徽使・元帥右監軍として山東・南辺の防備にあたり、四年(1164年)暑月の軍事行動延期を進言、九年(1169年)宋との交渉後、河南路統軍使として黄河決壊(李固渡)に際し「河道は填淤しており復旧は難しく、いたずらに大役を起こせば宋に付け入る隙を与える」と両河分流を主張、参知政事梁肅もこれに同意し塞ぐ工事は中止された。十年、参知政事に拝され、河南辺境の諜報活動についても「宋は厚賞で我が諜を得やすいが我は彼を得にくい」と論じた。十一年(1171年)巡邊中に病を得て赤舎哩志寧に代わられ帰還後薨じ、享年四十六。世宗は遺表に深く傷み、宣徽使敬嗣暉を遣わし厚く祭った。かつて宗叙が進言した貧民募兵屯田の策や辺戍の労苦への配慮は世宗の記憶に長く残り、十七年(1177年)にも「宗叙こそ国に尽くした者」と述べ、その子孫の困窮を聞いて銭三千貫を賜った。明昌五年(1194年)世宗廟庭に配饗された。