金史卷六十五 列傳第三 威泰

太祖に最も愛された弟

  • 威泰は20余歳の時、薩哈が埓克を伐つのに従い、希卜蘇・阿里罕らとともに裨将となったが、諸将が攻略法を協議する中、威泰だけが攻城を主張し、太祖が軍に到着すると「埓克城は間もなく落ちる、他の議に惑うな」と進言し太祖はこれに従った。急ぎ攻具を整え夜襲を行い翌暁には落城させた。二額訥斯琿路・二恩楚路の寇盗も威泰がことごとく平定した。
  • 康宗2年甲申、蘇伯水の諸部が命に従わないため康宗は威泰らを派遣し、呼爾哈川薩哈村で諸部を召集したが、惟鴻観部の沃赫貝勒、威凖部の達薩塔貝勒、哲爾徳部の薩克蘇貝勒は来ず逃亡した。烏塔はマ竒嶺でこの二人を捕らえ降った。威泰は兵を率いて沃赫に代わり蘇伯水で募兵、沃赫は籠城を固めたがこれを攻略し、進んで博齊赫布騰路の歓塔城を攻め落とし、叛いた者を捕えて帰った。太祖は母弟の中で威泰を最も愛し、寧江州に赴く際に同行を望んだが、威泰は「兵役が長く続き休息していない」として辞退した。
  • 太祖が拉林水のほとりで昼寝をした際、威泰の園の火が消えない夢を見て深く憂えたが、この時既に威泰は病に伏しており、太祖が家門を通っても下馬せず直ちに威泰のもとに行き病を問うたが、間もなく34歳で薨じた。太祖は常に泣いて「無理に同行させていたら死ななかったかもしれない」と語った。威泰は剛毅果断、服用整粛で世祖の風があり、世祖の代には軍旅の事を多く専任されていた。太祖は遼を平定した後「威泰がこれを見られなかったのが恨めしい」と嘆いた。天会15年、儀同三司・魏王を追贈され、諡は定粛。