金史卷六十五 列傳第三 烏色

蘇伯水平定と高麗遠征

  • 穆宗の初年、威凖部族が相互に略奪したため訥格納貝勒がその兵を率いて治めに赴いたが、訥格納は蘇伯水の人を勝手に募兵し従わない者を攻略した。訴えを受けた穆宗は烏色・伊克に状況を問わせ、訥格納は服したものの奪ったものを償わず逃走した。伊克らが追撃を望まぬ中、烏色は督軍して巴固嶺西茂密水でこれに追いつき大破し、訥格納は死んだ。烏色は蘇伯水の民部を撫定し、訥格納の母・妻子を捕らえて帰り、穆宗は「烏色は年若いのによく事を集めた、称賛に値する」と述べた。
  • 康宗2年甲申、威泰が蘇伯水諸部を治めた際、烏色・幹魯がこれを佐け、諸部を平定して帰った。後に高麗が使者阿古・雙寛を殺して海蘭甸に九城を築いたため、烏色は内外の兵を率い、海古勒・和尼齊・富察・都古嚕訥に佐けられて高麗の数万の兵を退けた。烏色は兵を十隊に分けて交互に出撃しこれを大破した。烏色の母呼紐が病篤くなり召還されると斡魯が代わったが、間もなく烏色は再び軍に戻り高麗軍を再び破り、その城を包囲した。7月、高麗は和を請い、亡命者と侵した故地をすべて返し、九城の戍を退いたためこれと和した。皇統5年、衛国王を追封された。

宗永――烏色の子

  • 宗永は本名塔塔、烏色の子で身は長く美髯であり、忠確勇毅であった。天眷の初め宗室の子として宗磐誅殺に参与し寧遠大将軍に抜擢され、皇統の初め牌印祗候を務め、5年に趙州刺史として出仕、任期満了後再任、興平軍節度使に転じ大名尹に改め、貞元3年に再び興平軍節度使となり、昭徳軍・臨洮鳳翔尹を歴任、大定2年に入朝して工部尚書となり、蘇保衡・完顔額哩頁とともに宋討伐の士官賞に加わった。宗永は事務に疎く、土賊と戦った者に一様に加増していたところ、世宗は久しくしてこれを知り「一律に追還すれば怨みを生み、放置すれば爵賞が濫れる」として、寡兵で衆敵に当たり一人で三十人以上を敵にした者に限り既定の加増を確定させ、同簽大宗正事・震武軍節度使に改めて卒した。