宣宗明恵皇后
- 王皇后の姉である。哀宗を生んだ。宣宗の即位に伴い淑妃に封じられ、妹が后に立てられると元妃に進封された。哀宗の即位に伴い皇太后に尊立され宮号を「慈聖」とした。后は性端厳でよく古今に通じ、哀宗が既に皇太子であった頃は過ちがあれば厳しく責めたが、即位してからは榎楚(体罰)を免れさせた。
- ある日、宮中で食事した際、尚器に玉盌楪が三つあり、一つは太后に、二つは帝及び中宮・荊王の母の真妃龎氏に奉じられていたが、瑪瑙器で食を進める者があった。后はこれを見て怒り、主者を召して「誰がお前に妄りに分別を生じさせたのか。荊王の母がどうして私の子の嫁より卑しいというのか。飲食の細事ではない」と言い、有司に杖殺を命じたが後に取りやめた。以後、宮中で真妃を奉ずることに加えられた。
- ある人が荊王が不軌を謀っていると告発し、獄に下し議決したところ、帝がこれを后に告げると、后は「お前には兄が一人しかいない。どうして讒言によりこれを害そうとするのか。章宗は伯(世宗の伯父)と叔(永中)を殺し享年は永くなく皇嗣もまた絶えた。どうしてこれに倣おうとするのか」と言い、赦して出させたが使いが来ても長らく至らなかった。「私はもうお前に会いたくない」と言うと帝は立ち上がり、后は王が至るまで立って待ち涙を流して慰撫した。
- 哀宗は一人の宮人を甚だ寵愛し后に立てようとしたが、后はその微賤を厭いこれを出すよう固く命じた。上はやむを得ず宮を出させ、使者に「お前が東華門を出て誰であれ最初に会った者に賜え」と語ると、たまたま出会った絹を売る者に嫁がせた。点検の薩哈連が上に打毬を教えたところ、后は勅を伝えて「お前は臣として主を正しく輔佐すべきなのに、遊戯を教えるのか。再びこのようなことがあれば大いに杖ってやる」と責めた。
- 近年のわずかな小勝により国勢がやや振るったが、文士に聖徳中興を称える賦頌を上げる者があった。后はこれを聞いて悦ばず「帝は年少で気鋭であり懼れる心がなければ驕怠が生じる。今わずか一勝を得たに過ぎず、どうして中興と言えようか。それなのにこの者たちがこのように諂うとは」と言った。正大8年9月丙申、后は崩じた。遺命で園陵の制度はできる限り倹約とするよう命じ、12月己未、汴城の迎朔門外五里の荘献太子墓の西に葬られ、「明恵皇后」と諡された。