宣宗皇后王氏
- 中都の人、明恵皇后の妹である。その父は微賎だった頃、二つの玉梳が月に化す夢を見たといい、まもなく二后を生んだ。父が没すると柩に芝が生えた。初め宣宗が翼王に封じられた時、章宗は諸王に民家の子を求め継嗣を広めさせる詔を出し、后は龎氏と共に王邸に入った。后の姉に美しい容色があったのを見て、これも納れた。
- 貞祐元年9月、后は元妃に封じられ、姉は淑妃、龎氏は真妃に封じられた。淑妃は哀宗を生み、真妃は守純を生んだ。后には子がなく哀宗を我が子として養った。貞祐2年7月、姓を温都氏に賜り皇后に立てられ、后の曽祖父得寿は司空冀国公、曽祖母劉氏は冀国夫人、祖父璞は司徒益国公、祖母楊氏は益国夫人、父彦昌は太尉汴国公、母馬氏は汴国夫人に追封された。3年、荘献太子が薨じ哀宗が皇太子となり、宣宗の崩御に伴い哀宗が即位すると、正大元年に皇太后に尊立され宮号を「仁聖」とし、后の父を南陽郡王に進封した。あるいは、宣宗が諸王であった時、荘献太子の母が正妃であったが即位すると皇后に尊立されたとも言われ、貞祐元年9月の詔には「元妃某氏は久しく潜藩に侍り、既に国号に封じられた。皇后に立てるべし」とあり、その名氏はますます考証できない。またある者は、王氏姉妹が入宮した後、后の寵は衰え間もなく尼となり、王氏がついに后に立てられたのはみな后の姉明恵の謀であったとも言う。
- 初め、王氏姉妹が受封の日、大風が昏霾(暗く霞んだ様)となり黄気が天地に充満し、まもなく后は乞丐(物乞い)の者が数万自分の後を踵う夢を見て心中甚だ悪んだ。占者は「后は天下の母である。百姓が貧窶であっても誰に訴えようか」と言い、后は有司に京城で粥や氷薬を施すことを勅した。壬辰・癸巳の歳(1232・1233)に河南は饑饉となり大元の兵が汴京を囲みさらに大疫が重なり、汴城の民の死者は百余万に及んだが、后はこれをすべて目の当たりにした。
- 哀宗が服を釈いて太廟に禘饗しようとした際、先立って有司が冕服を奏し、上は仁聖・慈成聖の両宮太后に請い内殿に御して試衣させると両宮は大いに悦んだ。上は便服に改め觴を奉じて両宮の寿を為し、仁聖太后は上に「祖宗が初めて天下を取るのは甚だ容易ではなかった。いつになれば四方が承平となり百姓が安楽になり、天子がこの法服を着て中都の祖廟で禘饗を行えるだろうか」と諭した。上は「阿婆(祖母)がこの意を持たれるのなら臣もどうして忘れましょうか」と答え、慈聖太后も「常にこの心を存している。これを見られる日も期があろう」と言い、ついに酒を酌んで寿を上げ、歓んで罷めた。
- 天興元年冬、哀宗が帰徳に遷ると、2年正月、近侍の図克坦肆喜・珠嘉塔克実布を遣わして両宮を奉迎した。后は仁安殿に御して鋌金及び七宝金洗を出し従行の忠孝軍に分賜した。この夜、両宮及び柔妃費摩氏らは馬に乗って宮を出て陳留城に行き至ったが、左右で火が起こり兵があるかと疑い進めなかった。后は急遽宮に戻ることを命じ、翌日入京し肆喜の家で憩い、しばらくして輦で宮に迎え入れられた。まさに再び行こうと謀っていたところ京城が破れ、后及び諸妃嬪は北に遷され行方は知れなくなった。ただ宝符の李氏だけが宣徳州まで従い摩訶院に居った。李氏は入院してから仏殿の中で寝るのみで、幡旆を作っており、まさに后妃と共に北行しようとした際、出発直前に仏像の前で自ら縊死し、自ら門の紙に「宝符御侍、この処にて身故す」と書いた。