金史卷六十四 列傳第二 哀宗皇后圖克坦氏

哀宗皇后図克坦氏

  • 宣宗及び后(明恵皇后)が病んだ際、后はかつて自分の肌を刲(き)って進めたことがあり、宣宗はこれを嘉歎した。興定4年、后の父の鎮南将節度使烏遜が罪を得たが、宣宗は后の純孝により特に赦し、致仕を聴した。正大元年、皇后に立てられた。哀宗が帰徳に遷った際、后の弟の肆喜らを汴に遣わして奉迎させようとしたが、夜、陳留に至って進むことができず、再び汴に帰った。まもなく城が破れ、后は北に遷され行方は知れなくなった。

  • 周礼の九嬪は婦学の法を掌り、婦徳・婦言・婦容・婦功があった。班昭はこれを論じ「婦徳は必ずしも才明絶異である必要はなく、婦言は必ずしも便口利辞である必要はなく、婦容は必ずしも顔色美麗である必要はなく、婦功は必ずしも功巧過人である必要はない。清閑貞静で節を守り身を整え恥を持って動静に法があること、これを婦徳という。辞を択んで言い悪語を語らず時に応じて言葉を発し人に厭われないこと、これを婦言という。塵埃を洗い服飾を鮮潔にし時をもって沐浴し身を垢辱させないこと、これを婦容という。専心紡績し戯笑を好まず酒食を潔斎して賓客に奉じること、これを婦功という」と言った。
  • 後世は婦学が修まらず、麗色を以て互いに高しとし巧言を以て互いに傾け、能を衒って恩を市め逢迎して寵を固めるようになった。ゆえに悼平(熙宗后)は皇統において掣頓(政に干渉)してその身を隕とし、海陵は羣嬖に蠱惑されてほとんどその国を亡ぼし、道陵(章宗)の李氏は寵を擅にして政を蠹しついにその宗を僨(くつがえ)した。ああ、戒めずにいられようか。