顯宗孝懿皇后
- 図克坦氏。その先祖は徳里必喇の人。曽祖父の綽は太祖に従い遼を取る功があり、その部を明安として世襲した。祖父の博勒和は戦功が多く累官して開府儀同三司に至り司徒斉国公を贈られた。父の貞は遼王宗幹の女梁国公主に尚(めあ)い駙馬都尉を加えられ太師広平郡王を贈られた。后は皇統7年に遼陽で生まれた。母は夢に神人から宝珠を授かる夢を見、光焔が室に満ち、既に覚めると生まれ、紅光が庭を照らした。后は性荘重寡言で、父母がかつて家事を総べさせると細大漏らさず処理し、諸男の及ぶところではなかった。
- 世宗が即位した初め、貞は御史大夫であり南京から馳せ参じて世宗に見えると、世宗は喜んで「卿は廃主の腹心の臣であったが、彼を助けて虐を為したことはなく、況んや卿の家法は尚ぶべきである。卿の女を朕の子の妃としよう」と言った。顕宗が皇太子となった大定4年9月、礼を備えて貞の邸に親迎した。世宗は宴に臨んで大いに歓んで罷めた。この年11月、顕宗の誕生日、初めて皇太子妃に封じられた。8年7月、上は宣徽使の伊喇錫勒塔干を遣わし名馬・宝刀・御膳を太子及び妃に賜い「妃は今臨蓐(出産間近)である。願わくは平安で雄(男子)を得て慶ありますように。この刀を左右に置くとよい」と諭した。まもなく皇孫が生まれ、これが章宗である。
- 時に上は金蓮川にあり氷井に次った。翌日、上は行幸して撫視し宴して大いに歓び、御服・佩刀等の物を賜い、顕宗に「祖宗の積慶と皇后の陰徳が厚いことにより今日の社稷の洪福がある」と言い、また李石・赫舎哩志寧に「朕の諸子は多いが皇后には太子一人のみだ。今、幸いにも嫡孫を得て、その骨相の凡ならざるを観る。また瑪逹格山で生まれたので、山勢が衍(ひろ)く気が清いのを朕は嘉して、その山名を章宗の小字とした」と言った。后は素より謙謹で、常にその家世の崇寵を畏れ、父母に会うと涙を流して「高明な家は古人が忌むところ。願わくは善く自ら保持せよ」と言った。その後、家は果たして海陵の事で敗れ、后の遠慮はこのようであった。世宗はかつて諸王妃・公主に「皇太子妃は容止合度・服飾得中である。お前たちはこれに法り効うべきだ」と言った。
- 章宗の即位に伴い皇太后に尊立され、居所の仁寿宮は「隆慶宮」と改名された。有司に歳ごとに金千両・銀5千両・重幣500端・絹2千匹・綿2万両・布500匹・銭5万貫を奉らせ、その他の必要な内庫の分は数を拘らず奏させた。上は月に5朝6朝と行き、いよいよ敬倹を加えた。諸大長公主に会う礼は平時どおりで、九族を敦睦させ恩紀はみな洽(あまね)かった。人の過失を耳にしたり諂佞な言葉を特に嫌い、容れる余地なく、喜怒を見せることはなかったが、下を御するには公平で、至親であっても阿徇せず、かつて諸姪に「皇帝が私のゆえに外家に恩を推している。忠を尽くして図報すべきである。小善を無益として為さぬことなく、小悪を無傷として去らぬことなかれ。私の貴を頼って非違を肆にして国家の常憲を犯すべからず」と戒めた。
- ある日、妹の并国夫人、嫂の涇国夫人らが侍側にあったとき「あなた方の家は累が重く豊厚でもない。財用を節約すべきだ。私を頼れると思うな。私は天下の養を受けているのに、どうして私財を蓄えることがあろうか。しかも財用は天下の財用である。私は結局あなた方の私室を富ませるために多く取ることはできない」と諭した。玉盂を進める者があったが却け「珍異な物を貴んで財用を尽くすのは私の望むところではない。まして私への賜予には度があり、今あなたがこれを献じれば自ら給することもできまい、徒に汝の財を費やすだけで私には無用だ。以後は決してするな」と言った。
- 明昌元年、礼官は5月に上册宝を上げるべきと議したが后は許さなかった。上はしばしばこれを請うたが、后は「今、世宗の服喪がまだ終わっていないのに、にわかに錦繍を着て珠玉を佩びるのは礼に照らして如何であろう。喪が明けるのを待ってから行うべきだ」と言った。上は有司に「太后は意を固く執っている。来年を待つように」と諭した。明昌2年正月、隆慶宮で崩じた。享年45。「孝懿」と諡され裕陵に祔葬された。后は詩書を好み、特に老荘の学を喜び、純淡清懿で立ち居振る舞いは必ず礼に則り、嬪御に対しては和平で接した。その生んだ子で母を亡くした者があれば自ら生んだように扱い、慈訓は上(子)に問わず、事に不当なところがあれば必ず厳しく戒めた。