金史卷六十四 列傳第二 世宗元妃李氏

世宗元妃李氏

  • 南陽郡王李石の女。鄭王永蹈・衛紹王永済・潞王永徳・豫王永成を生んだ。母の昭儀梁氏は早くに卒し、上は永成の乳母を妃としたことになる。大定元年、賢妃に封じられ、次いで貴妃に進み、7年に元妃に進んだ。世宗は即位すると昭徳皇后を感念し二度と后を立てなかった。かつて「朕が二度と后を立てない理由は、今の後宮に皇后の賢に匹敵する者がいないからだ」と言った。元妃は皇后の下、諸妃の上に位した。李石には定策の功があり、世宗は厚く賞しつつも深くこれを制し、尚書令の位で寵しつつ政事の責任は左右丞相以下に負わせ、妃は貴くとも政に預からず宮壼(後宮)に無事であった。
  • 大定21年2月、上は春水に行幸し長春宮に留まった。戊子、妃は病により薨じ、詔で永成・永蹈・永済・永徳はいずれも喪服を着けて服喪した。己丑、皇太子及び扈従の臣僚が芳明殿で奉慰し、辛卯、留守官の平章政事唐古安礼・曹王永功らが上表して奉慰した。御史中丞張九思が殯事を提控し、少府監の左光慶・大興少尹の王翛が鹵簿儀仗を典領し、宮籍監が別に殯所を治め、京師に還って殯した。乙未、崇智門から入り百官が郊迎、親戚が道路で迎奠し、興徳宮西位の別室に殯した。庚子、上が京師に至り興徳宮に行幸して致奠し、葬に至るまで三度致奠した。詔で平章政事烏庫哩元忠に葬事を監護させ、癸未、菆(もがり)を啓き上は朝を輟め、皇太子・親王・宗戚・百官が送葬した。甲申、海王荘に葬られ、丙戌、上は海王荘に行幸して焼飯(葬送の儀式)を行った。
  • 28年9月、賢妃舒穆嚕氏・徳妃図克坦氏・柔妃大氏とともに坤厚陵に陪葬された。衛紹王の即位に伴い「光献皇后」に追謚され、妃の弟の献可が特進を贈られた。貞祐3年9月、皇后号は削られた。