金史卷五十 志第三十一 食貨五(榷場・和糴・常平倉・水田・區田・入粟鬻度牒)

榷場

  • 榷場は敵国との互市の場で、場官を設け厳しく取り締まり屋宇を整え両国の貨を通じさせ、歳の所得も国用を大いに助けた。熙宗皇統2年(1142)5月、宋の請を許して両界に各々設置、9月に壽州・鄧州・鳳翔府等に置いた。海陵正隆4年正月(1159)、鳳翔府・唐・鄧・頴・蔡・鞏・洮等州及び膠西県の場を廃し泗州に専置、5年に伐宋のため泗州も罷めた。
  • 建国初め、西北招討司管下の燕子城・北羊城間に置いて北方の牧畜と交易した。世宗大定3年(1163)、夏国の榷場で馬を市った。4年、尚書省の奏により泗・壽・蔡・唐・鄧・頴・密・鳳翔・秦・鞏・洮の諸場を再設置。7年、秦州場での米麺・羊豕の腊・軍器に転用しうる物の域外流出を禁止。
  • 17年2月(1177)、上は宰臣に、宋人は背盟・逹寔(タタール)との内通の恐れがあるとして陝西沿辺の榷場を一処のみ残し他は廃止することを命じ、姦細の厳察を所司に命じた。これに先立ち姦細防止のため西界の蘭州・保安・綏徳の三榷場は廃止済みであった。21年正月(1181)、夏国王李仁孝が保安・蘭州は無産で税も少なく綏徳こそ要地であるとして復置を上表、宰臣に議させた結果、東勝は旧に依り存続、陝西の他は廃止としたが、上は東勝と陝西の道路が隔絶していることから環州に一場、綏徳州にも再設を命じた。12月、壽州榷場での分例(商人が場官に贄見する銭幣)受納を禁じた。
  • 章宗明昌2年7月(1191)、尚書省は泗州榷場の防禁の緩みを理由に大定5年制に依り舎屋を増修し闌禁を倍加、場官及び提控所が拘榷し提刑司が挙察することとし、東勝・静慶州・来遠軍のみ旧に依り他は全て修完した。泗州場は大定間歳獲五万三千四百六十七貫、承安元年に十万七千八百九十三貫六百五十三文に増加。泗州場の歳供物には新茶千胯・荔支五百斤・圓眼五百斤・金橘六千斤・橄欖五百斤・芭蕉乾三百箇・蘇木千斤・温柑七千箇・橘子八千箇・沙糖三百斤・生薑六百斤・梔子九十稱のほか犀象丹砂の類があった。宋も歳課四万三千貫を得た。秦州西子城場は大定間三万三千六百五十六貫、承安元年に十二万二千九十九貫。承安2年、保安・蘭州にも再設置。3年9月、行枢密院はサツア(薩察)等の告により色勒(サルレ)年に開場を提案、翌年12月より貿易を許した。随路の榷場では見銭を外界へ持ち出し交易すれば徒五年、三斤以上は死罪とする制を定めた。宋界の諸場は伐宋により全て廃止したが、泰和8年8月(1208)、宋との和議に伴い唐・鄧・壽・泗・息州及び秦鳳の地に復置。
  • 宣宗貞祐元年(1213)、秦州榷場が宋人に焼かれた。2年、陝西安撫副使烏庫哩揚珠が再開設し歳所得は十数万に及んだ。3年7月、榷場互市を銀で計数し税を課す議が出たが、上は公銭が外界に流出することを憂い、平章盡忠・権恭知政事徳升は賞賜に用いる銀絹の不足と私易の禁じきれなさから税を取れば足りると主張、平章高琪は小人が法を犯すのに公然と許すのはなおさら不可とし、産銀地が皆外界にある現状での不禁の危険を説いた。上は熟考を命じた。興定元年(1217)、集賢諮議官呂鑑は息州榷場の監官時代に毎場布数千匹・銀数百両を得たが兵乱後に全て失われたと言った。

金銀之税(地金)

  • 世宗大定5年(1165)、寶山県の銀冶を民の射買に任せた。9年(1169)、御史臺は河南府が和買金銀にかこつけ百姓に抑配しその価も低いことを奏し、上は「泉貨流通を求めたのに、かえって民を害してよいものか」と言い廃止させた。12年(1172)、金銀坑冶を民の採掘に任せ税を取らぬこととした。27年(1187)、尚書省は農閑期の民の採銀と官課の納入を奏した。明昌2年(1191)、天下の見在金は千二百余鋌、銀五十五万二千余鋌。3年、提刑司の言により諸処の銀冶を封じ民の採煉を禁じた。5年、御史臺の奏で各地金銀銅冶の民採煉再開を諮問、宰臣は太平が続き戸口が増え貧民が生計のため私煉に走る実態を指摘し、民に射買させれば貧民は夫匠・雑役に均しく従事でき射買した家も余利を得られるとして、有冶の地は穆昆・県令が籍を作り募集し射買させ、権要・官吏・弓兵・里胥は関与を禁じ、州府長官一員が提控し提刑司が訪察・禁治する制を定めた。上は根本策ではないとしつつ、恭知政事胥持国の「まず坊場を先に設け後に官榷する酒榷の例に倣うべし」との言に従い、これを許した。西京の墳山の銀山には銀窟が百十三あった。

和糴

  • 熙宗皇統2年10月(1142)、燕・西京・東京・河東・河北・山東・汴京等路が秋熟を迎え、司に増価和糴を命じた。世宗大定2年(1162)、正隆の乱後に倉廩が久しく匱乏していたため太子少師完顔守道らを山東東西路に派遣し戸口歳食を除いて残りを官に納めさせ直を給した。3年、上は宰臣に、山東和糴が四十五万余石に止まり不十分であるとし、水旱に備え軍屯地は二年分の備蓄を、宿兵の郡も糴で足らしめ、京師の需要も大きいので急ぎ計画するよう戸部に命じるべしと述べた。5年、積貯を国本とすべきなのに外路の官が文書のみで実行していないとして宰臣を叱責。6年8月、秋成後に諸路で広く糴を行い水旱に備えることを命じた。9年正月、宋人の誓約への不信から辺備を戒め、河南豊作の年は在地で広く糴して倉廩を実にすることを詔した。州県の和糴で百姓に抑配しないよう定めた。12年12月、在都の和糴で倉廩を実にし銭幣を流通させること、秋熟の郡には広く糴を行い水旱に備えることを詔した。16年9月、左丞相赫舍哩良弼に西辺の備蓄不足を指摘し和糴で緩急に備えるよう諭した。17年春、東京等路の振済で三路の粟が不足したため、上は豊年の広糴の指示に反し諸卿が「倉廩盈溢」と言いながら実際は不足していたことを叱り、隣道からの融通と豊年時の常時準備を命じた。4月、東京三路十二明安の欠食者はすでに振済したが未だの者もあり、復州・哈斯罕路等に官を派遣し富家の蓄積を検視し、増価で糴させ近地の居民に受糧させた。18年4月、泰州所管の諸明安・西北路招討司所管の奚明安・咸平府・慶雲県・霿鬆河等に豊年の和糴を命じた。
  • 章宗明昌4年7月(1193)、通州の米粟が甚だ安いことを聞き官糴の可否を戸部に諮ったところ、有司は中都路の不作年に商旅の運販で価がやや下がっているだけであり、官が争って糴えば市価が騰貴し貧民が困窮するとして、秋収を待って常平倉条理に依り収糴することを提案し、従われた。5年5月、米価騰貴に対し官運の余剰米を減価で糶し、私糴させぬよう明告することとした。6年7月、饑饉の地での減価糶の詔に対し貧民が銭を持たぬ場合の対処が問われ、省臣は闕食州県の一年目は振貸、二年目は振済とし、恒産のない民は初めから振済すべきとし、饑荒の地でも糴に堪えるところは減価糶、貧乏な者は振済することとした。
  • 宣宗貞祐3年10月(1215)、高汝礪に河南諸郡での糴を命じ民に輸輓させ京へ入れる一方、在京諸倉の糴分も民に輸ばせたところ、侍御史洪果納新は既に租賦の外に転輓の労を強いた上さらに強取するのは酷であり、糴して久しいのに三百余石しか得られず無益であると訴え、詔してこれを廃止した。12月、附近郡県が京師に糴を集中させ穀価が騰貴したため出境を禁じた。4年、河北行省侯摯は河北の人相食む惨状を報告し、滄州等での斗米銀十余両の高値、沿河渡での北渡販粟の許可はあっても官糴が八割を取るため商人に利がないこと、河朔の民が兵革と餓死に晒され乱民化する恐れを訴え、糴の停止と民の輸販の自由化を請い、従われた。また軍民客旅の粟を官糴処以外で糶し私販渡河する者への杖百、沿河軍・譏察官・権豪家の犯には徒年杖数を的決の上重科することを定めた。上は河北州府の銭が民間に散逸することを憂い尚書省に対策を命じ、省臣は山東河北榷酤及び濱滄鹽司での分数帯納に加え、河北の艱食で北渡販粟が多いことから諸渡口南岸に通練財貨官を置き金銀絲絹で商販の糧を博易し北岸へ転じさせ、銭が京師に入るようにすることを奏し、従われた。また上封事者は近年の艱食が調度徴斂の繁多だけでなく富豪の兼并(安値で買い占め窮民に高利で貸す)によることを指摘し、旧法の月利三分・積久して倍で止める制の励行を訴え、詔して行われた。同年、権河東南路宣撫副使烏庫哩慶壽が邀糴の事を言った(鹽志下に見える)。興定元年(1217)、上は和糴の重さで棄業する百姓が多いと聞き宰臣に留意を命じ、8月に戸部郎中楊貞が陝西行六部尚書として潼陝軍馬の用に充てるため済河する糧の半分を糴することを奏し従われた。6月、和糴の賞格を定めた。

常平倉

  • 世宗大定14年(1174)、常平倉の制を定め中外に施行したが間もなく廃れた。章宗明昌元年8月(1190)、御史が復設を請い、省臣に議させた。省臣は大定旧制(豊年は市価の十分の二増で糴、凶年は十分の一減で糶、平年は動かず)を述べ、天下の民の一年分を全て賄うには数量が過大で腐敗の恐れ、抑配の弊もあるとし、諸郡県は戸口に応じ月支三斗を基準に三月分の備蓄(千万石余)を目安とし、官兵三年食糧に加え三月分を賄えぬ郡県は豊年に糴すべしとした。提刑司・計司が兼領し、怠るものは糾し推行者は抜擢、中都路の凶作地は常平法により価を三分の一減で糶する制とし、従われた。3年8月、常平倉の豊糴儉糶を有司の勤惰を賞罰する制とし、諸路に諭し滅裂な運用は提刑司が糾察することとした。また随処の常平倉が有名無実で遠県の民が州県まで赴くのが困難であることから、各県に倉を置き州県府官が兼提控管勾する制とし、州から60里以内は州倉、60里外は特置とした。備蓄量は元は戸口三月分としたが過大であるため戸2万以上は3万石、1万以上は2万石、1万以下5千以上は1万5千石、5千戸以下は5千石に改めた(河南陝西の屯軍貯糧県は除く)。郡県吏が代替時に糴った粟を一月内に交割し、期限を過ぎれば州府・提刑司が催督、監交を怠れば処罰、歳が豊作でも収糴が一分に達しなければ降格とする制も定めた。9月、置倉の地は州府官が提挙、県官が董事し糴の多寡で陞降を定める永制とした。上京路諸県の未設置分にも定額を課すよう諭した。4年10月、上京・扶餘・率賓・海蘭・呼爾哈等路の明安穆昆民戸17万6千余、歳収税粟20万5千余石、支出6万6千余石、見数247万6千余石という状況では収多支少で振済に十分と判断され設置は見送られた。5年9月、天下常平倉総519処、見積粟3786万3千余石(官兵5年分に相当)、米810万余石(4年分に相当)、見在銭3343万貫余(2年分程度)と報告され、米価が依然高く預糴すれば価が騰貴する恐れから、中外の常平倉和糴を一旦停止し、官銭に余裕が出た日に再開することとした。

水田

  • 明昌5年閏10月(1194)、郡県に河ある所は渠を開き引水灌漑すべしとの言事があり詔を下したが、八路提刑司はほとんど不可と回答、中都路のみ安粛・定興二県で河を引き4千余畆を灌漑できると答え実行された。6年10月、県官の任内で水利田を興し百頃以上に至った者は本等首に陞注、穆昆管下の屯田で三十頃以上増した者は銀絹二十両匹を賞し租税は陸田に準じる制を定めた。承安2年(1197)、白蓮潭東閘の水を放ち百姓の灌漑に供した。3年、髙梁河閘を毀たず民の灌漑に供するよう命じた。泰和8年7月(1208)、諸路按察司に水田開拓を計画させ、部官は沿河での渠作りや平陽での井戸掘りが灌漑に有用であり、邳・沂近河での荳麦栽培の井戸灌漑(計六百余頃)が陸田の数倍の収穫を得ている例を挙げ、他境でも同様と述べ、転運司に計点、按察司に開河・掘井の便否を審察させ計画を上申させた。貞祐4年8月(1216)、言事者程淵は碭山諸県の陂湖が水があれば畦にして稲田、退けば麦を植え陸地の倍の収穫があるとし、募人による佃作(官が三分の一を取る、歳十万石見込み)を提案、詔許された。興定5年5月(1221)、南陽令李国瑞が創開した水田四百余頃について陞職二等・最状録され諸道に諭された。11月、水田興起の議で、省は前漢の召信臣が南陽で三万頃を灌漑した例、魏の賈逵が汝水に堰を築き二百余里を通運した賈侯渠、鄧艾の淮陽百尺二渠・潁の陂三百余里で二万頃を灌漑した故事を引き、河南郡県には古の水田開拓地が多く陸地の数倍の収穫があるとして戸部に州郡を巡視させ開拓可能地には民を募り租は陸田に準じ官が賞で奨励する方針を定めた(陝西は三白渠除き同様)。元光元年正月(1222)、戸部郎中楊大有らを京東西南三路に派遣し水田を開かせた。

區田

  • 區田の法は嵇康の養生論に見えるが歴代天下に通用した趙過の一畆三甽の法のようなものはなかった。章宗明昌3年3月(1192)、宰執が上前でこの法を論じ、上は「農がこの法を理解できるか」と懸念しつつも普及を検討させた。4年夏4月、宰執と再び議論、参知政事胥持国は大定間より戸口が増え費用も嵩む現状で区種法の利益の大きさを説き、上は「古よりある法がなぜ行われないのか」と述べ、持国は民が利を見ていないためとし、城南の地に試種させ官に監督させれば民は収穫を見て自ずと倣うだろうと言った。参知政事瓜爾佳衡は功が多く種が少ない上に畦畆の田を廃す恐れを指摘、上は試行を命じた。6月、上は胥持国に区種の状況を問い、持国は六七月の交にならねば分からないと答え、河東・代州の田も例年より豊作であると報告、近侍二人を派遣し京畿の禾稼を巡視させた。5年正月、農民に区種を諭す勅、先に陳言人武陡髙翌が区種法を上申し人丁地土の多寡に応じた定数を請うたため、農田百畆以上で瀕河易水の地は三十余畆を区種、多種を望む者は任意、無水の地は民の便に任せることとし、各千戸穆昆・県官に勧率させた。承安元年4月、区種法を初めて施行、男15歳以上60歳以下で土田ある者は丁ごとに一畆、丁多き者は五畆を上限とした。2年2月、九路提刑馬百禄は聖訓の「地一頃を有する者は区種一畆、五畆で止める」に対し地の肥瘠が異なるとして畆数を限らぬことを求め、許された。泰和4年9月(1204)、区田について尚書省は本来民利のための法だが旱魃時に急に用いても倉卒に功を挙げがたく、地の肥瘠も一様でなく民が利を見れば自ら勉めるものであり督責を厳しくしても徒労であるとして、所在の長官及び按察司の随宜勧諭に留めることとし、結局は普及しなかった。

入粟鬻度牒

  • 熙宗皇統3年3月(1143)、陝西の旱饑に際し富民の入粟補官を許した。世宗大定元年(1161)、兵乱・歳饑を理由に民の進納補官を許可し、饑民救済に功ある者への補官格も定めた。5年、上は宰臣に、辺事未定・財用欠乏の折に東南両京以外で行った民の進納補官・僧道尼女冠の度牒紫褐衣師号寺観名額の売却について、辺鄙が安定した今は全て廃止すべしとし、慶寿寺・天長観の歳給度牒(一道折銭二十万)は賜与に用いることとした。明昌2年、山東河北の欠食地に納粟補官の差等を勅した。承安2年、度牒師号寺観額の売却及び入粟補官を再開。3年、西京の饑饉に際し度牒を売って救済した。
  • 宣宗貞祐2年(1214)、知大興府事胥鼎の請により権宜の鬻恩例格(進官・昇職・丁憂人の応挙求仕・監戸従良等)に入粟の数を定めた。3年、官民を問わず勧率して物を納官する者への恩賞制(米百五十石で遷官一階・正班任使、七百石で両階、諸司除授は千石で三階、これを超えれば朝廷の議に付す)を定め、勧誘した司県官にも功績に応じた昇進(二千石で一階、三千石で両階)を与えた。また司県官が進糧五千石以上を勧率すれば一資考を減じ、万石以上で一官遷り二資考減、二万石以上で一官遷り一等陞とする制も定めた。4年、河東行省胥鼎は河東の兵多民少・倉空歳飢の状況を訴え、潞州元帥府の鬻爵恩例の条目が少なく勧率に功がないとして、正班買補は元来一名蔭ずるところを増蔭一名、僧道の師号ある者は本司官職の買補、官願納粟者の遷加、三挙終場者(50歳以上)・四挙(45歳以上)者の入粟の該恩、令史吏員の進納遷官、掌軍官の自弁芻糧による遷官等の具体策を建議した。同年、耀州僧広惠は軍儲不足を理由に京府節鎮以上の僧道官に納粟百石で防刺郡・副綱・威儀等は七十石で30ヶ月満替、諸監寺は十石で周年一代、再買を望む者は許すことを言い、従われた。興定元年(1217)、潞州行元帥府事鈕祜禄貞は覃恩の官が入粟に応じ帥府が空名宣勅を書いて授ければ人は訴えの労なく官は儲蓄を得られるとし、羈縻軍職の未授者への対応を含め前後の輸粟を通算して積遷する制を提案、従われた。