金史卷四十八 志二十九 食貨三 錢幣

銭貨の始まりと鋳造

  • 金は初め遼宋の旧銭を用い、天会末年には劉豫の「阜昌元宝」「阜昌重宝」も併用した。海陵の貞元二年(1154年)の遷都後、戸部尚書蔡松年が鈔引法を復して交鈔と銭を並用させた。正隆二年(1157年)冬十月、初めて銅の域外持ち出しを禁じ罪賞の格を懸け、民間の銅鍮器を陝西・南京は京兆へ、他路は中都へ集めさせた。三年(1158年)二月、中都に宝源・宝豊の二監、京兆に利用監を置き「正隆通宝」を鋳造、宋の小平銭に倣いながら質・字文はより整った。世宗大定元年(1161年)、吏部尚書張中彦の言により陝西路で宋の旧鉄銭を参用したが、四年(1164年)に不便として廃止された。八年(1168年)以降、銅の私鋳・私鏡の禁が徹底され、十年(1170年)には官銭の滞留を避け金銀・諸物での貿易を促す策が講じられたが、抑配(強制割当)による弊害も生じた。
  • 十二年(1172年)正月、銅貨不足を受け坑冶の探索が奨励され、上と宰臣の議論では「金銀は民に与えてよいが銭のみ私鋳を禁じる、費用がかかっても新銭が増えれば民間に流布する」とされた。十五年(1175年)以降も鋳銭の得失が議論され、十八年(1178年)、代州に監を置き震武軍節度使李天吉らに鋳させたが出来が悪く官を削られ、工部郎中張大節・吏部員外郎麻珪が「大定通宝」を鋳造した(銀を微量混ぜたと伝わる)。十九年(1179年)から鋳造が本格化し、二十年(1180年)以降、短陌(八十文を一陌とする慣行)を長陌(官の足陌)と統一する定制、代州監の「阜通」への改称と官制の整備、二十六年(1186年)の京師と外路の銭の偏在の問題、二十七年(1187年)の曲陽県での「利通」監増設、二十八年(1188年)の外路の滞留銭の京師輸送の是非などが続いた。章宗大定二十九年(1189年)十二月、代州・五台の民が銅鉱運搬の負担を訴え、調査の結果、輸送の顧直が低く弊害が多いことが判明し代州・曲陽の二監は罷められた。

交鈔の始まりと変遷

  • 貞元年間(1153-1156年)の鈔引法施行後、印造鈔引庫・交鈔庫が設けられ、一貫・二貫・三貫・五貫・十貫の五等を「大鈔」、百・二百・三百・五百・七百文の五等を「小鈔」と称し、七年を限として旧を納め新に易える宋の張詠の四川交子の法に倣った。制度発足当初から廃止論もあったが、有司は「交鈔は見銭同様に商旅の利便であり公私ともに有益」として七年釐革の限を除き常用とし、これが後の信用低下の始まりとなった。交鈔には闌作花紋・貫例・字料・字号・偽造罪(斬)・告捕賞(三百貫)などが記された。大定間の存留銅鍮器の申売価格や、明昌二年(1191年)の鏡価格の引き下げ(私鋳防止)、明昌三年(1192年)の境外採銅の禁止、五年(1194年)の三万貫を超える富家の銭保有の制限(唐の元和間の限銭令を参酌)、承安二年(1197年)の「承安宝貨」(銀貨、一両から十両まで五等)の鋳造とその不振(私鋳の横行による市場閉鎖)など、銭・銀・鈔の間で信用を維持しようとする試みが繰り返された。
  • 承安三年(1198年)以降、境外への銭の持ち出し禁止・限銭法の強化、四庫での小鈔への両替、五年(1200年)の承安宝貨の廃止(交鈔に統一)、泰和元年(1201年)の銀価問題・三合同交鈔の限定的流通、泰和三年(1203年)の三合同鈔の全国流通化などが続いた。泰和四年(1204年)以降、銅の不足に対する鋳銭策の議論、寺観の法器数の制限、大銭「泰和重宝」(当十)の鋳造、五年(1205年)の工墨銭の減免、六年(1206年)以降の陝西・諸路での小鈔通用の拡大、七年(1207年)の大鈔の民間流通制限(三分の一を大鈔で納めさせる)、市中での鈔法批判の禁止(捕告賞三百貫)など、鈔の信用維持のための施策が矢継ぎ早に打たれた。戸部尚書高汝礪の建議による契約書面での鈔使用の義務化、鈔の昏鈔(磨損した鈔)の取り扱い、地方庫での鈔本の設置などが泰和七、八年(1207-1208年)に整備された。
  • 衛紹王大安二年(1210年)の潰河の役では軍賞に至るまで交鈔の信用が地に落ち、宣宗貞祐二年(1214年)二月、二十貫から百貫、さらに二百貫から千貫の交鈔を新造して信用回復を図ったが、泰和以来しばしば改鈔のたびに軽くなる悪循環が続き、南遷後は輪をかけて悪化した。三年(1215年)、河東宣撫使胥鼎は「物価高騰の弊は鈔の出るばかりで入らないことにある。見銭の使用を禁じ軍需名目で民力に応じて徴収すべき」と論じ、五月には交鈔を「貞祐宝券」と改称し沮阻罪も立てられたが、御史台は「所入が所出に及ばず価値が下がるのは自然の理」と指摘し、市肆が閉ざされ京師の物価が高騰する事態となった。四年(1216年)以降も官吏俸給の欠乏や寳券の流通策が議論され、平章高琪は「新券を旧の子母として併用すべき」と提案したが、濮王守純以下は改鈔を憚った。五年(1217年)閏十二月、宰臣は「五年前に貞祐通宝を造って救ったが今また当時と同じ弊に陥っている」として「興定宝泉」を新造し、通宝四百貫を一貫、銀一両を二貫とする子母相権の制を定めた。
  • 興定元年(1217年)二月、貞祐通宝が行われ、五月には桑皮故紙の徴収に代えて鈔額を「桑皮故紙銭」として徴収する策が採られたが、高汝礪は「河南の民は既に租税の三倍を負担しているのにさらに七千万貫の桑皮故紙鈔を徴収するのは過酷」と諫めたが用いられなかった。三年(1219年)十月、贓罪の量刑基準を銀価に合わせる改定、四年(1220年)以降、鎮南軍節度使温特赫思敬の民鋳銭の提案(政府は不採用)、五年(1221年)の「興定宝泉」の発行(通宝四百貫を一貫)などが続いた。元光元年(1222年)二月から施行されたが、二年(1223年)五月にはさらに通宝五十貫を一貫とする改鈔と「元光珍貨」(綾に印刷)の発行が行われ、銀価はなおも高騰し、宝泉はほとんど使われなくなった。銀一両につき宝泉三百貫を超えないよう定め、平凖務を置いて交換を管理したが、市肆は閉じ商旅も途絶えた。義宗(哀宗)正大年間(1224-1231年)には民間はもっぱら銀で取引するようになり、天興二年(1233年)十月、蔡州で「天興宝会」(一銭から四銭までの四等)を銀に準じて発行したが、数か月を経ずして国は滅んだ。