金史卷四十七 志二十八 食貨二 田制・租賦・牛頭税
田制
- 田は営造尺五尺を一歩、広さ一歩・長さ二百四十歩を一畝、百畝を一頃として量った。民田の売買・質入れは自由で地に応じて租を納めればよかった。桑棗は民戸で地の十分の三、明安穆昆戸で十分の一を植えることを課し、枯れた木は補植させた。官地は明安穆昆及び貧民が請射する場合、寛郷は一丁百畝、狭郷は十畝(中男は半分)とし、荒地の請射は最下第五等の租を半減して八年後に徴し、己業とする場合は第七等を半減して七年後に徴した。太宗天会九年(1131年)五月、諸路に勧農使を分遣し、熙宗天眷十四年(実際には皇統年間か、原文のまま記述)拉林・混同間の護邏地を子民に耕牧させ、海陵正隆元年(1156年)には刑部尚書赫舍哩羅索ら十一人を分遣し大興府・山東・真定府の官地・荒閑牧地・占射逃絶戸地・戍兵占佃の宮籍監外の官員の増置田・大興府平州路の僧尼道士女冠の地などを拘括し、遷ってきた明安穆昆戸に給し民に請射させ官租を得る策を進めた。
- 世宗大定五年(1165年)十二月、京畿両明安の民戸が自ら墾さず桑棗を薪として売る弊を大興少尹完顔譲に巡察させ、十年(1170年)には囲場地への侵耕を禁じ、十一年(1171年)には民の耕種を妨げないよう配慮した。十三年(1173年)、明安穆昆への農事勧督は職官に委ね煩擾を避けることとし、十七年(1177年)六月には邢州の趙迪簡が官田の豪強による占拠と貧民の重税を訴え、有司に拘籍・租課の是正が命じられた。十九年(1179年)以降、女直人戸の遠方移住による薄地への不満、豪族による官田の私業化、蘆田の課題などが繰り返し議論され、二十一年(1181年)には叅政納哈嗒椿年ら諸家の占地(一家一口で三十頃に及ぶ例もあった)三千余頃を拘括して官に入れ貧民に給する策が定められた。二十二年(1182年)以降も梁山濼の官地開放、租佃条件の整備、二十七年(1187年)の豪強による転貸・課利の規制(丁ごとに五十畝を給する)などが続いた。
- 章宗大定二十九年(1189年)以降、限外請佃の規制、平陽路の丁数に応じた地割、河南沿辺の膏腴の地の募民開墾、河東の飢民の河南への招集など、地域間の開墾政策が展開された。明昌元年(1190年)二月、瀕水の被水地には近隣の官田で対給する、三年(1192年)、南京陝西路の旧牧馬地の民地との境界紛争を解消するための対易(南京路六万三千五百二十余頃・陝西路三万五千六百八十余頃の牧地)、五年(1194年)の勧農の殿最制(能く勧める者への賞・怠る者への罰)、六年(1195年)の陝西括地の廃止など、細かな施策が続いた。承安二年(1197年)以降、軍戸の授田規定の厳格化(十里内自種の数、丁ごと四十畝)、六路括地の際の冒名増口の問題も表面化した。泰和七年(1207年)の清河等地の募民種佃、八年(1208年)の荒地請佃・自首冒佃の期限規定の整理などを経て、宣宗貞祐元年(1213年)以降は河北軍戸の河南移住に伴う括地の議論が激化した。侍御史劉元規は「河北山東の括地では民の塋墓井竈まで軍に取られ怨嗟が絶えない」と諫め、上は括地を罷めた。三年(1215年)以降も河北軍戸への荒官田・牧地の給付や口糧の折半支給、四年(1216年)の牧馬地の括査などが進められたが、右丞高汝礪は「軍戸の求める田は僻遠で耕せず、半糧のみ支給する方が現実的」と論じ、朝廷はしばしば給田策を撤回し折半の糧支給に戻した。興定三年(1219年)、尚書右丞領三司事侯摯は河南の軍民田総百九十七万頃余のうち耕作中は九十六万頃余で、上田一石二斗・中田一石・下田八斗の収穫を見込めば十分の一税で九百六十万石を得られると試算した。五年(1221年)以降も水災による河南の逋戸の田の処遇、軍戸への三十畝給付案などが議論されたが、実行には至らなかった。
租賦
- 官地は租、私田は税を輸した。田等は九等に分けられ、夏税は畝ごとに三合、秋税は五升を取り、秸一束(十五斤)も納めた。夏税は六月から八月、秋税は十月から十二月を初中末の三限とし、三百里外の州はさらに一月延長された。屯田戸は明安穆昆が督した。泰和五年(1205年)、章宗は「十月は民の収穫が未だ終わらないのに納税を急ぐのはよくない」として秋税の限を十一月に改め、中都・西京・北京・上京・遼東・臨潢・陝西など寒冷地は夏税を七月からとした。三百里外への輸送には減免があり、物力に応じた「物力銭」も課され、災害時の免税規定も細かく定められた。太宗天会元年(1123年)以降、租税の軽減・遼人士庶の賦役均一化・熙宗天眷五年(1142年)の残欠租税免除・皇統三年(1143年)の未納税蠲除など、免税措置がたびたび出された。世宗大定二年(1162年)以降、河北山東など元帥府が独自に取り立てた賦役の重複徴収の是正、蝗旱水害地の租税蠲免、彰徳節度使高昌福の租税過重の訴えへの応答(翰林学士張景仁は「今の税斂はむしろ軽い」と反論)、天下倉廩の貯粟二千七十九万余石という蓄積規模と「国に九年の蓄えなくば国にあらず」という世宗の言、遼東の賦税額の変遷(通検前六万石から二十万石余へ)などが記録されている。二十六年(1186年)以降も水旱被害地の租税免除、河決被害地への配慮が続いた。章宗大定二十九年(1189年)の即位赦での租税一割免除、河東南北路の地質に応じた減免比率の設定、折納物資の見直し(黄河の薪芻・木石など現地調達が必要な物は折納の対象から除く)、泰和年間の乾旱・大水・軍事費調達に伴う租税免除・半減措置なども頻出する。宣宗貞祐三年(1215年)以降、御史田逈秀は「軍国の需要をすべて河南に頼るのは酷であり、期限を予め告げるべきだ」と諫め、山東行省布薩安貞は泗州・邳州での過重な徴発と進納閑官による督責の弊害を訴えた。興定元年(1217年)以降も逃戸の租税免除、大水被害地への租税免除・種を勧める措置、鎮南軍節度使温特赫思敬の輸送距離に応じた徴税制度改革案などが議論されたが、元光年間(1222-1223年)に至っても、収穫前に刈り取らせて限に応じさせる過酷な徴収の弊、麦の輸送距離による農時の逸失などが指摘され続けた。
牛頭税
- 牛具税とも呼ばれ、明安穆昆部の女直戸が輸する税である。耒牛三頭を一具とし、民口二十五で田四頃四畝余を受け、歳の輸粟はおよそ一石を超えず、官民の占田は一戸四十具を超えなかった。天会三年(1125年)、太宗は歳の豊作にもかかわらず官の蓄えがないことを憂い、一耒ごとに粟一石を賦し穆昆ごとに廩を設けて貯えさせた。四年(1126年)には内地諸路で牛一具につき粟五斗を賦す制を定め、世宗大定元年(1161年)、遷徙のない明安には牛具の歳粟を徴し穆昆にその倉を監させることとした。十二年(1172年)、唐古部の民は旧来明安穆昆と同じ税制であったが後に州県に倣い畝を履んで税を立てたのが重すぎるとして旧制に戻された。二十年(1180年)、功授世襲の穆昆に親族を従わせる際の地給規定(牛九具以下は全給、十具以上四十具以下は官豪の家から六具を割いて給す)も定められた。二十一年(1181年)、世宗は「かつては一年の収穫で三年を支えられたが、今この地の一年の収穫は半年も支えられず、牛頭税の粟も牛一頭につき三斗しか納められず滞納も多い、これは互いに隠匿しあっているためだ」と述べ、実数を輸させるよう命じた。二十三年(1183年)、左丞完顔襄が旧来七具であった自家の牛数を四十具に改めさせられた例を引き、世宗は「各々私を顧みるゆえに議が進まない」と述べた。以後、民口二十五で牛一具を算する基準が定着し、七月には版籍の年数を経て貧富が変化し明安穆昆が若年で実務に不慣れなため、実地の推排による戸口・畜産の調査(明安二百二・穆昆千八百七十八・戸六十一万五千六百二十四・口六百十五万八千六百三十六・田百六十九万三百八十頃余・牛具三十八万四千七百七十一など)が行われた。二十六年(1186年)、牛頭税粟の一括徴収が議論された際、世宗は「五年分を積み上げて一度に徴収すれば民が耐えられない」として毎年順に納めさせ、被災者は免除し貸与分は豊年を待って返還させることとした。