金史卷四十六 志二十七 食貨一 戸口・通檢推排

総説

  • 国に食貨があるのは人に飲食があるのと同じで、人は飲食なくして生きられず国は食貨なくして立たない。金の食貨は立法が周到で取民が慎重であった。太祖は遼の租税を減じて規模を大きくし、熙宗・海陵は遠略を務め財用の制を講じ、世宗も蓄積の志を忘れず、章宗は文物が盛んになり辺費も広がって食貨の議論を急務とし、宣宗の南遷後は国土が縮小して財源も枯渇していった。租税・銅銭・交鈔の三つが立国以来の食貨の大要であり、いずれも数変して数窮した。官田の租・私田の税のほか、田園・屋舎・車馬・牛羊・樹芸の数や蓄えた銭の多寡に応じて徴する「物力」の銭があり、公卿大夫から庶民まで免れる者はなく、外国から帰った近臣は饋遺を受けたとして物力銭を増され、明安穆昆戸には「牛頭税」もあった。物力のほかにも舖馬・軍須・輸庸・司吏・河夫・桑皮故紙などの細かい名目の銭が多数あった。戸には課役戸・不課役戸・本戸・雑戸・正戸・監戸・官戸・奴婢戸・二税戸などの区分があり、三年に一度の戸籍調査(後に通検・推排に変化)で徴税基準を定めたが、その施行には厲民との批判と財政不足との板挟みがあった。銅銭・交鈔の弊はさらに甚だしく、遼宋の旧銭に始まり劉豫の銭も用い、正隆以後に鼓鑄を議し銅の私蔵・私用を厳しく禁じたが官民ともに困窮し、銭法は交鈔・銀貨へと移行し、大鈔・小鈔・寳券・通寳・寳泉・珍貨・寳会と名を変えるたびに信用を失い、金の滅亡とともに終わった。国が財を集めて民を散じ亡んだ例は鹿台鉅橋の類も及ばぬほどで、括粟闌糴などの掊克の政、進納・鬻爵・鬻僧道位・鬻丁憂・鬻監戸・鬻進士出身にまで及び、名器・倫法が乱れた。宋との和議破棄・淮陽経略の失敗により国庫と軍を共に疲弊させ、禦ぐ術を失った。金の食貨志を編むにあたり、掩巻して嘆息せざるを得ない。金は東海に起こり純実な気風を持ちながら、中原に入って以来、その弊は「作法於涼、其弊猶貪」(緩やかに始めた法もその弊はなお貪に至る)との古語のとおり、遼の倹朴を卑しみ宋の繁縟な文物を襲い、宋の寛柔を懲らしめ遼の操切な政を加えるという、両国の短所を併せ用いる誤りを犯した。繁縟は財を傷め操切は民を害し、国用が窮し民心が離れたのはこのためであろう。鹽策・酒麴・常平・和糴・茶税・征商・榷場などの制度もおおむね宋の旧を踏襲した。

戸口

  • 金制では男女二歳以下を「黄」、十五以下を「小」、十六を「中」、十七を「丁」、六十を「老」とし、夫のない者を「寡」、篤廃疾は丁に数えない。戸主は最年長者が務め、物力ある者を課役戸、ない者を不課役戸とし、五家を保とした。泰和六年(1206年)、旧の五家保法が形骸化していたことから唐制に倣い五家を鄰、五鄰を保とする制に改めた。京府州県の郭下には坊正、村社には戸の多寡に応じて里正を置き、戸口の把握・賦役の催督・農桑の勧課にあたらせ、村社三百戸以上には主首四人など員数を定め、明安穆昆部の村寨には寨使を置いた。里正は戸の十分の三の富民から雇銭を募って充てられた(大定二十九年、章宗は坊里制を廃し主首に代えようとしたが農業への支障から二年一代の制とした)。戸口の計帳は三年に一度、正月から州県の主首・明安穆昆の寨使が各戸を訪ね男女老幼の増減を記録し、二月から四月にかけて州・上司・部へと順次報告された。漢人・渤海人は明安穆昆戸になることを許されず、明安穆昆の奴婢が良民となれば本部の正戸に隷し、没入官の良人は監戸、没入官の奴婢は太府監に隷して官戸となった。
  • 収国二年(1116年)、太祖は凶饑で豪族に依り奴隷となった者や、犯法の徴償で身を奴とした者などを二人で一人を贖える形とし、天輔五年(1121年)には旧部の民を泰州に移し博勒和が統率、六年(1122年)には澤潞の諸州の民を上京に移し、七年(1123年)には燕京路の六州の氏族富強工技の民を内地に移した。太宗天会元年(1123年)には潤隰等四州の民を瀋州に移し、以後も貧窮した遷民の子を丁力で贖う詔、権勢家による貧民の強買の禁止と罰則(一人ごとに賠償十五人・詐買は二人)など、良民保護の措置が続いた。熙宗皇統四年(1144年)、陝西・蔡州の飢饉で典雇され奴となった者を絹で贖い良民に戻した。世宗大定二年(1162年)、遼代に寺院へ寄進された「二税戸」(税の半分を官に半分を寺に納める民)を良民に戻す詔が出され、十七年(1177年)には咸平府路の伊勒敦部(遼の猟戸として簽発された女直人)の戸籍を正すことが認められた。二十年(1180年)には上京路の女直人戸が物力回避のため奴婢を自売する弊が問題視され、明安穆昆戸を漢人と雑居させ相助けさせる勧農策も議論された。二十三年(1183年)、明安二百二・穆昆千八百七十八・戸六十一万五千六百二十四・口六百十五万八千六百三十六(正口四百八十一万二千六百六十九・奴婢口百三十四万五千九百六十七)、墾田百六十九万三百八十頃余・牛具二十八万四千七百七十一という規模が記録された。大定初年に天下戸わずか三百余万であったのが、二十七年(1187年)には六百七十八万九千四百四十九戸・四千四百七十万五千八十六口にまで増えた。
  • 章宗大定二十九年(1189年)、二税戸を良民とするための境界確認や、明昌元年(1190年)の農桑重視・僧道への出家制限、明昌六年(1195年)の物力銭統計(天下女直契丹漢戸七百二十二万三千四百・口四千八百四十九万四百・物力銭二百六十万四千七百四十二貫)、泰和七年(1207年)の課役逃避対策など、戸口と課役をめぐる施策が続き、十二月の統計では戸七百六十八万四千四百三十八・口四千五百八十一万六千七十九(大定二十七年より戸で百六十二万三千七百十五、口で八百八十二万七千六十五の増加)を記録し、これが金の版籍の最盛期であった。衛紹王の時代から軍旅が絶えず、宣宗の南遷後は死徙により各地が空虚となり、戸口は減少の一途をたどった。興定元年(1217年)以降も逃戸の招復・租税免除の詔が繰り返されたが、代出の負担を恐れて帰還しない民が多く、河壖の州県では戸数が十分の一にまで減じたところもあった。

通検推排

  • 通検は『周礼』大司徒の三年一大比の制に通じるもので、金では建国当初の占籍以来、大定四年(1164年)に正隆の兵乱後の貧富の変化に応じ賦役を均そうと世宗が詔を下し、泰寧軍節度使張宏信ら十三人を各路に遣わし通検物力を行わせた。しかし使者が苛酷に多くの物力を得ることを功とする弊があり、宏信が山東で酷薄をふるったのを棣州防禦使完顔永元が面責した逸話も伝わる。五年(1165年)、有司は通検の不均衡を訴え地土等第の税法を再定した。十五年(1175年)九月、通検から十余年を経て貧富が変化したとして済南尹梁肅ら二十六人を分路推排に遣わし、二十年(1180年)四月には明安穆昆戸の差発の不均衡を是正するため、右丞相克寧・平章政事安禮・枢密副使宗尹らが議論し、奴婢・孳畜・地土の数を調べて科差するか財産だけで四等に分けて科すかで意見が分かれ、世宗自ら「一穆昆内でも奴婢の多寡で貧富の差は明らかであり、正隆興兵の折には朕の奴婢は万を数え孳畜も数千あったが一人一馬も差されなかった、これでは公平とはいえない」と述べ、拘括推排を進めることとした。同年十二月には推排が始まり、二十二年(1182年)八月に中都路から詔で貧富の実査を進め、貧戸が馬を養う負担を恐れないよう配慮された。二十六年(1186年)には李晏らが分路推排を担い、二十七年(1187年)、上は自ら元の推排額(天下物力銭三百五万余貫)と実際の減額・追加分を細かく問い質し、大数は差役の法を定めるためのものであり多寡自体が目的ではないと述べた。
  • 章宗大定二十九年(1189年)以降も国信使副の物力免除、農民の積穀に対する物力免除などの優遇が続き、明昌元年(1190年)には民地に既に税を課しさらに物力を通定するのは重複であるとして物力を十分の二減じ、承安元年(1196年)以降も推排の実施時期・方法(新強を増し旧弱を減じるが元数を無理に満たさない、辺城の被寇の地は推排しない等)が細かく定められた。三年(1198年)九月、十三路の推排で物力銭二百五十八万六千七百二貫余(旧額三百二万二千七百十八貫余)と査定され、貧乏を理由に六十三万八千百十一貫を除免、上京・北京・西京路は新強の増加なしとされた。泰和二年(1202年)以降も推収の手続きの簡素化(典売のたびに標簿へ随時記録し臨時に浮財のみ拘収する)や、職官の遠方赴任中の物力免除手続きなどが定められ、八年(1208年)九月には吏部尚書賈守謙ら十三員を分路推排に遣わし、章宗は香閤に召して「新強は勿添、消乏は勿銷不尽(新たな富は無理に加えず、衰えた分は取りこぼしなく減じよ)」と諭し、十年後の利害に関わる重い責務であることを強調した。