五代史演義第三十九回 故妃、逼られ子と共に亡び、御史、敢言し母を奉じ戍に出づ (故妃被逼與子同亡 御史敢言奉母出戍)
趙延壽の末路と南征方針の決定
- 恒州で拘束された趙延壽は北へ連行され、河東は延壽の子・趙匡贊(河中節度使)の帰順を促す。延壽は二年後に獄中で衰弱死する。
- 知遠は南征の進路を協議、河北経由・潞州経由の案を退け、無名の臣下の進言により陝・晋経由(新たに帰順した両鎮を通り兵站を確保できる)の策を採用、蘇逢吉の献策や占星の結果も踏まえ天福十二年五月十二日の出発を決める。
- 皇后に李氏を冊立し、皇弟・劉崇を太原尹として北都に残し、諸子・功臣に官職を与えて出発の体制を整える。
澤州・河陽の攻略
- 出発後、史弘肇を澤州攻略に残す。刺史・翟令奇は当初抗戦するが、部将・李万超が「漢人でありながら遼のために死ぬのか」と説得し降伏させる。
- 遼将・崔廷勳、耿崇美が河陽を攻めると、節度使・武行德は苦戦するが史弘肇が救援し遼軍を撃退。軍規厳正な弘肇の進軍は民心を得て、知遠の南下は大きな抵抗もなく進んだ。
蕭翰の傀儡擁立と北帰
- 汴梁に留守する遼将・蕭翰は知遠の南下を知り北帰を決意するが、混乱を避けるため先帝の詔を偽って許王・李從益(唐明宗の孫)を「権知南朝軍國事」に擁立する。母・王德妃は恐れて隠れるが捕らえられ、母子は即位の儀に立たされる。
- 蕭翰は部将・劉祚に守備を委ね、自らは北へ引き上げる。
李從益母子の悲劇
- 知遠は洛陽から進軍を続け、旧遼任命の官吏もそのまま用いる布告を出す。王德妃は高行周・武行德らに支援を求めるも応じられず、やむなく「臣梁王権知軍国事李從益」の名で知遠に帰順を申し出る。
- 知遠は郭從義に密命を下し、從益が高行周らと結んで対抗しようとしたとの疑いを口実に母子に自害を強いる。王德妃は「せめて息子を生かし、明宗陵に麦飯を供えさせてほしかった」と嘆きながら從益とともに命を絶った。
劉知遠の大梁入城と新王朝
- 知遠は大梁に入城し受賀、大赦を行い、旧遼系官吏もそのまま任用する。国号を大漢と称するが、なお天福の年号を用い「晋を忘れぬ」と言い訳する。呉越・湘南・南平など各地も相次いで帰順した。
南唐の福州敗戦と江文蔚の弾劾
- 南唐主・李璟は中原奪還を志すが、福州では呉越の援軍・餘安が竹簀を用いた奇策で上陸に成功し唐軍を大敗させる(馮延魯の失策で孟堅戦死、二万余の兵を喪失)。
- 唐主は陳覚・馮延魯のみを処罰しようとするが、御史・江文蔚は馮延己・魏岑を含めた四人(いわゆる「四凶」)の専横と国政壟乱を長文で弾劾する。正論は容れられず江文蔚は左遷され、宋齊邱の助命工作で陳覚・馮延魯も流罪に減じられる。韓熙載も齊邱らを弾劾するが、齊邱は咎められず熙載自身が左遷される始末で、南唐は中原奪還の好機を逸した。
呉越と福州のその後
- 呉越では福州の囲みが解かれた後に王が若くして没し弟・弘倧が継ぐ。福州の李達(李仁達)は呉越の駐将・鮑修讓と対立し南唐への寝返りを図るが、逆に鮑に討たれ一族もろとも滅ぼされる。以後、福州は呉越、建州は南唐の版図として安定する。
- 北方では新たに即位した遼の兀欲が祖母・述律太后を阿保機の墓のそばに幽閉する。
評語
- 著者は、李從益母子が何ら罪もなく蕭翰に擁立されたばかりに知遠に殺されたことを痛ましいとし、知遠の非情さを暗に批判する。南唐については、江文蔚のような直言の士がいながら聞き入れられず、無能な佞臣が国政を握って好機を逃した点を嘆く。