五代史演義第三十八回 遼主、乱を聞き驚き速やかに返り、燕王、喪に乗じ位を奪い拘さる (聞亂驚心遼主遄返 鎮河東藩王登大位)
劉知遠の即位後の施策
- 知遠は「旧主を迎える」との名目で出兵するが実際は北へ進まず晋陽に帰還、民から財を取り立てて将兵に恩賞しようとする。妻の李氏(劉夫人)が「民を苦しめず後宮の蓄えを充てるべき」と諫め、知遠はこれに従い将士は大いに感激する。
- 李氏はもと晋陽の農家の娘で、知遠が求婚を拒まれた末に力ずくで奪い妻としたという経緯を持つが、その後夫の出世とともに魏国夫人となり、この度は自ら私財を投げ出す度量を見せた。
遼主の激怒と包囲網
- 遼主は知遠の即位を知り激怒して官爵を剥奪、耿承美・高唐英・崔廷勳ら諸将を澤・潞・相・孟の要地に配して河東への道を塞ぐ。しかし遼の圧政に苦しむ民は各地で蜂起し始める。
各地の反遼蜂起
- 相州では賊将・梁暉が夜襲で城を奪取、陝府では趙暉・侯章らが遼の監軍を討ち取り、いずれも晋陽に帰順を申し出る。知遠は史弘肇を派遣して代州を陥落させ、晋州も内部クーデターで帰順、澶州でも義民が蜂起するなど各地で遼支配が揺らぐ。
趙延壽の再婚と遼主の南方統治の限界
- 遼主は各節度使を原任地に戻し漢人官吏による統治に切り替える。趙延壽は先妻の妹・永安公主を妻に迎え、その母・王德妃と弟の許王從益も遼主に礼遇されるが、宋・亳・密州などでも反乱が続発する。
遼主の北帰と相州の惨劇
- 暑さと動揺を理由に遼主は北帰を決意、蕭翰を汴梁(宣武軍)の留守に任じ、官吏・財宝を伴い北上する。道中は荒廃した村落を見て嘆息する一方、兵の略奪は黙認したままであった。
- 相州では高唐英とともに梁暉の反乱を鎮圧し、城内の男は皆殺し、嬰児まで惨殺する凄惨な虐殺を行い、生き残った住民はわずか七百人であったという。
- 磁州刺史・李穀は晋陽との内通を疑われ拘束されるが、機転で言い逃れて釈放される。遼主は趙延壽一人に混乱の責を負わせ、張礪も従いながら心中忸怩たる思いを抱く。
武行德の蜂起と史弘肇の潞州救援
- 河陽では武行德が遼の官吏を殺して城を奪取し晋陽に帰順。潞州では史弘肇が救援に向かうと遼軍は既に撤退しており、部将・馬誨がこれを追撃して大破する。
遼主の死
- 遼主は各地の離反を知り「括銭・略奪の黙認・節度使を早く帰さなかったこと」の三つの失策を悔い、憤りと後悔から病に倒れ、殺狐林で客死する。遺体は塩漬けにされ「帝羓」と呼ばれて北へ運ばれ、述律太后も冷淡にこれを迎えた。
趙延壽の失脚と兀欲の即位
- 遼主の死を機に趙延壽は恒州で権力掌握を図るが、東丹王突欲の子・永康王兀欲に先を越され、城の実権を奪われる。兀欲は自分の妻を「延壽の義妹」と称して宴席に誘い出し、延壽を捕縛する。
- 兀欲は先帝の遺詔を偽造して即位を宣言、述律太后は「本来の後継は自分の側にいた息子」と反対するが、兀欲は構わず恒州で即位し、太后の追討の動きを察すると麻答に恒州を守らせて自らは北へ引き上げ、趙延壽を囚人として連行した。
評語
- 著者は、遼が中原を保てなかったのは天運のせいではなく、括銭・略奪など遼主自身が認めた失策と暴虐が民の離反を招いたためだと説く。趙延壽の変節と末路は自業自得であり、兀欲が恒州で即位したのも、太后が年少の子を偏愛して嫡孫を立てなかったことに起因すると結ぶ。