五代史演義第四十回 晋太后、建州に徙され絶命し、漢高祖、鄴都に幸し親征す (徙建州晉太后絕命 幸鄴都漢高祖親征)

兀欲の即位と述律太后の幽死

  • 遼の永康王・兀欲は恒州で帝位に即くと北へ進軍し、述律太后が迎撃に出した降将・李彥韜を偉王が説得して降伏させ、軍勢を合わせて遼の都へ迫った。
  • 城中の将吏も日頃から気前のよい兀欲を慕って次々と出迎え、太后は手も足も出ぬまま捕らえられ、阿保機の墓所である木葉山の粗末な小屋に幽閉された。老いた太后はやがて病を得て世を去った。かつて酋長たちを殺した報いだと語られる。
  • 兀欲は名を阮と改め天授皇帝を称し、天祿と改元した。国舅の蕭翰は形勢に従い、部下の麻合と組んで功臣・張礪を反逆の名目で殺したことを兀欲に報告した。

張礪誅殺の顛末

  • 張礪はかつて遼主徳光に、中原の統治に遼人を用いぬよう進言したことで蕭翰の恨みを買っていた。蕭翰は張礪を詰問し、口論の末に投獄させ、張礪は獄中で憤死した。
  • 語り手は、張礪と趙延壽がともに漢人でありながら異民族に仕えた末に非業の死を遂げたことを、因果応報の教訓として挙げる。

徳光の埋葬と恒州の混乱

  • 兀欲は先帝徳光を木葉山に葬り、嗣聖皇帝・太宗と追諡した。葬儀のため恒州の晋臣馮道らを招こうとしたが、折しも恒州で内紛が起き、指揮使の白再榮らが暴虐な麻答を追放して定州を占拠した。
  • 馮道らはこの隙に中原へ帰還できた。麻答は日頃から漢人に対して残酷な仕打ちを重ねており、それが恒州の乱の原因になったという。乱後、白再榮らは漢に帰順し、恒州・定州は再び漢の領土となった。

石重貴一族の流転

  • 遼に幽閉されていた石重貴(負義侯)一家は述律太后の命でさらに遠方の懐密州へ移されることになり、道中の困窮に耐えかねた妻の馮氏は毒薬による心中まで考えたが、果たせぬまま旅を続けた。
  • 折しも兀欲が即位して恩赦を出し、重貴一家は遼陽に呼び戻されて多少の待遇を受けた。翌年、兀欲が遼陽に巡幸した際には重貴を宴席に招き、故臣たちとの再会もあって重貴は安堵する。
  • しかしその後、兀欲は重貴から侍従十五人余りと息子の延煦を伴として召し上げ、さらに重貴の幼い娘までも兀欲の妻兄・禅奴が所望し、無理やり奪い取られてしまう。父娘の別れの悲哀が描かれる。
  • 延煦は李太后の計らいで一時祖母とともに祖父母のもとへ戻ることが許されたが、李太后は兀欲に、子孫が自活できるよう漢兒城付近の土地を求め、許された。

建州への移住と太妃・太后の死

  • 遼の命でさらに南の建州へ移されることになり、道中で目の見えない安太妃は衰弱し、死に際して自分の遺骨を焼いて南へ飛ばし、中国へ魂を帰したいと重貴に言い残して息を引き取った。荒野で車輪を燃やして火種とし、亡骸を荼毘に付した。
  • 建州節度使・趙延暉は重貴一行を厚遇し、耕作用の土地も与えられて、重貴母子はしばらく平穏な生活を送った。
  • ある日、遼の使者が来て重貴の寵姫二人を召し上げ、連れ去ってしまう。重貴・李太后は嘆き悲しんだ(妻の馮氏は内心喜んだとも語られる)。
  • その後、李太后は杜重威・李守貞らを恨み続けたまま病に倒れ、死に際して自分の遺骨も范陽の仏寺へ送り焼き捨てて灰にするよう遺言し、亡くなった。
  • 重貴夫婦のその後は史書にも定かでなく、後周の頃に建州にいたとの噂を最後に消息は絶えたという。語り手はこれ以上の憶測を避けると述べる。

湖南(楚)の内紛の萌芽

  • 劉知遠が大梁に入ると各地から祝賀が相次ぎ、遼の残兵も一掃された。湖南の馬希広は兄・希範の死を受けて後継を報告し、楚王に封じられた。
  • 兄の希範は生前、豪奢な宮殿を築き、家臣の諫死をも顧みず享楽にふけり、婦女を強引に奪うなど暴政を重ねて病死した。
  • 臨終に際し希範は弟・希広への継承を託したが、兄の希萼(朗州節度使)を差し置いての即位に不安を残し、後の兄弟骨肉の争いの伏線となったと語られる。

杜重威の抗命と鄴都攻め

  • 劉知遠は各地の節度使を配置転換したが、杜重威だけは命に従わず、遼の援軍(張璉ら)を頼って鄴都に立てこもった。漢は高行周・慕容彥超に討伐を命じる。
  • 高行周は慎重に囲むべきと説くが、慕容彥超は行周の娘が杜重威の子の嫁であることを疑い、私情で攻めを渋っていると公然と非難し、両将は対立する。
  • 漢主は自ら親征を決意し、鄴都に至って攻城を命じるが、矢石に阻まれて損害を出し攻めきれない。高行周の進言で遼将・張璉に降伏を勧めるが応じず、包囲は長引いた。
  • 攻城が行き詰まる中、一人の婦人が漢主への目通りを求めて陣に現れる。

評語

  • 遼の述律太后と晋の李太后は、ともに賢く夫や子を支えた女性でありながら、それぞれ孫や子に累を受けて非業の最期を遂げた。特に李太后は異郷の建州で客死し、より悲惨だったと評す。
  • 杜重威は晋を滅ぼした重罪人でありながら漢に降ってもなお謀反の疑いを残し、天意もまた彼を滅びに導いたとし、漢主が招降になお応じたのは寛容が過ぎたとも評される。李太后の恨みも、これでいくらか晴れよう、と結ぶ。