五代史演義第二十一回 王徳妃、更衣して寵を承け、唐明宗、香を焚き天に祝る (王德妃更衣承寵 唐明宗焚香祝天)
任圜冤死の後始末
- 安重誨は矯制で任圜を殺した後にようやく事後奏聞したが、唐主嗣源は逆に任圜の罪を数え上げる詔を出し、一族は赦免するとした。実際には重誨に欺かれていたにすぎない。
王徳妃の入宮
- 唐主の正室曹氏(永寧公主の母)、次夫人夏氏(従榮・従厚の母)、妾魏氏(従珂の生母)に加え、邠州出身で梁将劉鄩の侍女だった王氏(「花見羞」の異名を持つ美貌の持ち主)が、夏夫人没後に安重誨の推薦で後宮に入った。
- 王氏は多額の遺産も持参し、唐主の寵愛を一身に受け、曹氏を淑妃、王氏を徳妃に封じた。
王徳妃と安重誨・孔循の暗闘
- 王氏は財を安重誨や皇子たちにばら撒き人心を得、曹淑妃にも礼を尽くしつつ実権を握った。安重誨は娘を皇子従厚に嫁がせようとしたが、孔循の讒言で重誨自身が固辞してしまう。
- 孔循はその隙に自分の娘を宦官孟漢瓊を通じて王徳妃に働きかけ、従厚妃に納めることに成功。重誨はこれを知って激怒し、孔循を外任(忠武軍節度使)に追いやった。
安重誨の専横と諸将との軋轢
- 温琪の処遇をめぐる唐主とのやり取りで重誨は失言し、温琪は恐れをなした。
- 成德節度使王建立は重誨と対立し、樞密副使張延朗の縁故人事を含め重誨の専権を朝廷で告発。唐主は重誨を左遷しようとしたが、重誨が強く抗弁し、宣徽使朱弘昭の取りなしで一旦は収まった。王建立は右僕射・同平章事に転任。
皇族・重臣への圧迫
- 皇子従厚は孔循の娘を妃とし、孔循は賄賂で朝廷残留を図ったが重誨に阻まれ地方赴任となった。
- 皇姪従璨は些細な失態(酔って御榻に上がった件)を後から重誨に弾劾され、房州司戶参軍に貶められた末に賜死された。
王都の反乱と契丹の介入
- 義武節度使王都は莊宗の姻戚として優遇されてきたが、安重誨の裁抑や輸送負担への不満から謀反を企て、諸鎮に檄を飛ばすも呼応を得られず孤立。
- 唐は王晏球を招討使とし定州を包囲。王都は奚族の禿餒に援軍を求め契丹軍も参戦するが、王晏球は曲陽での伏兵戦、短兵戦を駆使して契丹・王都連合軍を撃破。惕隱ら契丹将は趙德鈞の伏兵に捕らえられた。
- 天成四年二月、定州内で内応が起き王都は一家自焚、禿餒も捕らえられ処刑された。王晏球は功を誇らず、天平軍節度使・中書令に任じられ、のち病没した。
呉・楚・荊南の情勢
- 呉丞相徐温の死後、呉主楊溥は皇帝を自称し乾貞と改元。荊南高季興は呉に藩属して秦王に封じられ、楚との戦いにも勝利。楚王馬殷は唐に訴え、唐から楚国王に封じられ長沙府に宮殿・百官を整備した。
- 呉が唐と対立し楚に攻め込むが敗退、講和した。荊南高季興の死後、子従誨は「唐に近く呉に遠い」との判断で唐への服属に転じ、贖罪の使者を送り節度使に任じられた。
楚の内紛(高鬱の死)
- かつて高季興は楚の謀臣高鬱に反間の計を仕掛けたが馬殷は信用しなかった。しかし世代が変わり子の希聲の代になると高鬱への讒言が功を奏し、兵権を奪われた高鬱は不満を漏らしたことが希聲の耳に入り、父の命と偽って殺害される。
- 馬殷は高鬱の死を悲しみ、翌年病没(享年七十九)。長子希振は弟希聲に位を譲り、希聲が跡を継ぐ。希聲は父の喪中にも大食漢ぶりを発揮するなど評判は芳しくなかったが、対唐関係は保ち二年で没した。
呉越と安重誨の確執
- 呉越王銭鏐も自立して寶正と改元し、安重誨への書状の文面が尊大だったため、重誨は使者昭遇・韓玫を派遣して詰問。帰国後、韓玫が昭遇を讒言し昭遇は無実の死を遂げる。重誨は銭鏐の王爵剥奪まで求め、呉越との関係も険悪化した。
唐明宗の治世と焚香祝天
- 唐主嗣源は政治に励み、名を亶と改めた。豊作の年に喜色を見せると馮道が井陘の険路の逸話を引いて「安きに居りて安しとせず」と諫言し、聶夷中の詩(農民の困窮を詠んだもの)を引いて民の苦しさを説いた。
- 唐主はこれに感銘を受け、聶夷詩を座右の銘のように誦した。老齢を自覚し、毎夜香を焚いて天に「早く聖人を生み民の主とし、自分を退かせてほしい」と祈った。
- 伝承では、後の宋太祖趙匡胤はこの天成二年に洛陽夾馬営で誕生したとされる(父は趙弘殷)。
河中の異変
- 天成五年二月、唐主は長興と改元。その後、河中で兵変が起き節度使李從珂が追われるという事件が起きる(詳細は次回)。
評語
史書は唐明宗を色を好まぬ人物と称えるが、王徳妃の寵愛ぶりを見ればそれも疑わしい。安重誨の専横も元をたどれば徳妃の恩寵を失ったことに起因する。王都討伐の成功も一時の幸運にすぎず、焚香祝天の逸話も、帝位に恋々としない人物であれば継嗣を早く定めたはずで、史家の美化が含まれると評者は見る。とはいえ五代の乱世にあって天成・長興期はまずまずの小康であり、本編は明宗の功罪をありのままに描く方針である。