五代史演義第二十回 徳妃を立て寵愛し次子を愛し、任圜を殺し権相私讐に報ゆ (立德光番後愛次子 殺任圜權相報私仇)

李嗣源の新政と側近たち

  • 即位した李嗣源(唐主)は政治を刷新し、宰相任圜が誠心をもって補佐、朝廷の綱紀はしだいに整った。
  • 鄴都を守る趙在禮は唐主の鄴都行幸を求めたが、唐主は疑い、義成節度使に転じさせた。在禮は応じず、結局鄴都留守・興唐尹に改任された。
  • かつて荘宗弑逆の首謀者だった従馬直指揮使郭從謙は、嗣源の入都時にはお咎めなしで旧職に留まっていたが、後に景州刺史に転じさせたうえで誅殺・一族皆殺しにされた。
  • 唐主は文字に暗く、政務は安重誨に読み上げさせていたが、重誨も万事に通じないため、馮道・趙鳳を端明殿学士に任じ侍読とさせた。安重誨は功高きを恃み次第に専横になっていく。

契丹・阿保機との交渉

  • 契丹主耶律阿保機は先の敗戦(第十四回)以来入寇せず、むしろ唐と通好していた。渤海遠征中のところへ、唐からの弔問・新帝即位を告げる使者姚坤が訪れる。
  • 阿保機は嗣源の子(実は義兄弟晋王の長子筋にあたる)の死を聞いて号泣し、当初は疑いを見せた。長子突欲は姚坤を難詰したが、姚坤は正論で退けた。
  • 阿保機は姚坤に、旧主(荘宗)が奢侈放蕩で身を滅ぼしたことを自らの戒めとしていると語り、修好の条件として河北や鎮・定・幽州の割譲を求めたが、姚坤は使者の立場を盾に拒絶し、書状を書かなかった。

阿保機の死と徳光の即位

  • 阿保機は姚坤を抑留したまま扶餘城を落として東丹国と改名、長子突欲を人皇王としてそこに残し、次子德光を伴って帰途につくが病没した。
  • 皇后述律氏が喪を護送して帰国。跡目決定にあたり述律氏は二子を馬前に立たせ、酋長たちに手綱を取らせる形で暗に德光を指名し、諸酋長もその意を汲んで德光の馬前に集まったため、德光が契丹の後継主となった。突欲は東丹に戻された。
  • 姚坤は釈放されて帰国、唐主に報告。唐は弔問使を送った。

述律太后の殉葬

  • 德光は述律氏を太后と尊び、阿保機を木葉山に葬り太祖と諡した。
  • 葬儀にあたり述律太后は諸酋長に「先帝を慕うか」と問い、慕うと答えた者たちを次々と墓前で殺して殉葬させた。妻たちにも「私に倣え」と言い放ち、側近も次々殺害、犠牲者は百人を超えた。
  • 阿保機の寵臣趙思溫だけは従わず、「太后が行くなら自分も従う」と言い返した。述律太后は「嗣子が幼く国事があるため殉じられない」と述べ、自ら左腕を切り落として墓に納めさせ、思溫は死を免れた。

契丹の内政と盧文進の帰順

  • 述律太后が国事を裁決し、韓延徽(第十一回既出)を政事令とした。姪女を德光の皇后とする。德光は孝謹な性格で太后に尽くした。三年後に天顯と改元。
  • 契丹の盧龍節度使盧文進は、唐主嗣源の説得により部下ともども唐に帰順(盧文進の契丹降伏は第十一回既出)。唐は義成軍節度使に任じ、のち威勝軍に転任、同平章事を加え厚遇した。

南方諸国の情勢

  • この頃、蜀は滅び岐は降り、呉は旧のまま存続。嶺南の南海王劉巖は兄劉隱の跡を継ぎ、梁末に越を建国して皇帝を称し乾亨と改元、のち国号を漢、名を陟と改めた。唐主存勗への上書で「大漢国主」を自称し、唐との関係は決裂した。
  • 南詔の後継争いで鄭旻が長和を建国、漢に和親を求め昭淳を派遣、漢主は姪の増城公主を嫁がせた(実際は側室扱い)。
  • 南宮に白龍が現れたとの縁起で漢王は陟から龔、さらに讖書により龑(音は儼)と自ら文字を造って改名。楚と不和になり、封州で楚軍を誘殺して大勝、大有と改元。楚王馬殷は唐に貢いで連携し、楚漢は対峙した。

閩国の内紛

  • 閩(旧漢東・福建)は王審知が梁の封を受け閩王を称していたが、子の延翰が唐から節度使を受けて自立、次第に王を称するようになる。
  • 延翰は好色で、正妻崔氏の嫉妬により多数の妾が殺され、崔氏自身も怨霊に祟られて急死した。延翰は暴虐を極め、弟延鈞の諫言を退け左遷。
  • 延鈞は養子延稟(もと周姓)と謀り福州を急襲、延翰を殺害して延鈞が跡を継ぎ、唐から閩王に封じられた。この頃、唐・呉・漢・閩の四国と呉越・荊南・湖南の三鎮という勢力図が形成された。

荊南高季興の面従腹背

  • 荊南節度使高季興は唐に表向き従いながら、蜀討伐の際は西川行営招討使を拝命しながら実際は日和見し、蜀滅亡後は唐の輸送物資を略奪、唐の官吏まで殺害した。
  • 嗣源即位後も言い逃れを続け、夔・忠・萬などの州を実質手中に収めた。唐が劉訓を派遣して討伐させたが長雨と疫病で撤退。
  • 唐将西方鄴が奪回に成功すると、季興は荊・歸・峽の三州を挙げて呉に臣従した。

任圜と安重誨の対立

  • 唐相豆盧革・吳說が弾劾により罷免され、朝政は任圜が主導。枢密使孔循が推薦した鄭珏・崔協の人事をめぐり任圜と対立、安重誨も鄭珏側についたため任圜との軋轢が深まった。
  • 御前での論争で任圜は重誨・崔協を痛烈に批判、唐主は馮道を評価する発言をした。孔循は不満で数日出仕せず、重誨は結局崔協の任用を進め、馮道・崔協が同平章事となった。

孟知祥と李嚴の一件

  • 蜀出身の任圜は三司を兼判し、蜀の余剰軍資金の送付を趙季良に命じたが、西川節度使孟知祥は従わなかった。
  • 安重誨は孟知祥を除こうと、客省使李嚴を西川監軍に派遣。李嚴の母は諫めたが従わず赴任。孟知祥は宴席で李嚴を詰問し、部将王彥銖に命じて斬殺させた。

唐朝廷内の動き

  • 唐は事後、趙季良を節度副使に任じるなど懐柔を図り、瓊華公主や知祥の子昶を送り返すなど厚遇を試みたが、知祥の唐廷への不信は増した。
  • 平盧軍校王公儼の反乱、韓叔嗣一党の連座死、鄴都軍の不穏、盧台の兵変などが相次いだが、いずれも鎮圧された。趙在禮は横海節度使に転じ、皇甫暉・趙進が新たに任官、皇次子從榮が鄴都を守った。

任圜の失脚と非業の死

  • 任圜は安重誨と朝政の方針でしばしば対立し、使臣派遣の権限をめぐり激論、唐主は重誨側についた。宮嬪(花見羞と目される)が任圜を讒言したことも影響し、任圜は罷免され太子少保、さらに致仕して磁州に隠棲した。
  • その後、唐主が汴州へ行幸中に朱守殷が謀反、御営使石敬瑭らが鎮圧し朱守殷は自刎した。
  • 安重誨はなお任圜を恨み、朱守殷との共謀を誣告し、勅命を偽って任圜に自尽を命じた。任圜は一族と酒宴を開いた後、毒を仰いで自害した。

評語

本回は後唐の外事(契丹・南方諸国の動静)を中心に描いた過渡的な章であると位置づけられる。従来は後唐内部の記述に偏っていたが、本回で契丹を主、諸鎮を客とする形で外情を整理し、以後の展開を理解しやすくしている。孟知祥による李嚴誅殺、平盧・鄴都・汴州の乱はいずれも簡潔に処理される一方、任圜の非業の死は後唐随一の賢相として特筆に値するとされる。