五代史演義第二十二回 悍帥、三鎮を攻めんと謀り、権臣、両川を失い首を砕く (攻三鎮悍帥生謀 失兩川權臣碎首)
李從珂と安重誨の確執
- 養子李從珂は戦功があり唐主の即位にも功があったが安重誨と不仲。宴席での喧嘩沙汰の後、唐主は從珂を河中節度使に出した。
- 重誨は河東牙内指揮使王彥溫を使って從珂を陥れようとし、彥溫は從珂の入城を拒んだ。唐主は事情確認のため彥溫を召そうとするが、重誨は密命で藥彥稠に彥溫を討たせ、口封じのため彥溫は即座に斬られた。
- 從珂は無実を訴えるも罷免され蟄居。重誨はさらに馮道・趙鳳に從珂弾劾を諷させたが、唐主は「奸党に陥れられた息子を疑うのか」と一喝した。
從珂の危機と王徳妃の庇護
- 重誨自らも從珂を弾劾するが、唐主は自分が貧しかった頃、從珂が馬糞拾いで生計を助けた恩を語り強く反発、從珂は私第での謹慎に留まった。
- 重誨は河中節度使に索自通を送り込み、從珂の武器保有を私造と讒言させたが、王淑妃(旧德妃)の庇護で從珂は罪を免れた。徳妃は重誨の婚姻仲介の一件以来、疎遠になっていた。
- 重誨は磁州刺史康福を朔方に出鎮させ危険な任務に追いやろうとしたが、唐主の厚遇(護送軍派遣)により康福はかえって大功を立てた。
東西両川への圧迫策
- 重誨は西川節度使孟知祥の勢力を削ぐため、夏魯奇を武信軍節度使として遂州に、東川の果・閬二州を割いて保寧軍を新設し李仁矩を節度使に、武虔裕を綿州刺史に配置する策を進言、唐主も採用した。
- 東川節度使董璋はこれに強く反発。李仁矩が使者として梓州を訪れた際、宴席への遅参を怒った董璋に面前で恫喝され、金銭を献じてようやく解放される屈辱を受けた。李仁矩は重誨と結び、董璋の謀反を吹聴した。
孟知祥と董璋の連携
- 董璋は苦境から孟知祥に和解と婚姻同盟を持ちかけ、知祥も朝廷の増兵の噂に危機感を抱き応じた。副使趙季良は「董璋は貪欲で先が短い」と警告しつつも、当面は合縦策を勧めた。
- 両者は連名で朝廷に増兵停止を求める上表をしたが黙殺され、董璋は武虔裕を幽閉、劍門に築城するなど軍備を固めた。孟知祥も雲安の塩利を求めるなど独自に勢力を強めた。
開戦へ
- 唐は知祥の要求を一部認めつつ閬州にも増兵、董璋は子の光業を通じて朝廷に抗議したが安重誨は逆に増兵を強行。ついに董璋が挙兵する。
- 閬州・遂州・利州の三鎮が奏上、唐主は「討たざるを得ない」として三鎮に迎撃を命じたが、逆に東西両川が先制攻撃を仕掛け、東川は李仁矩の閬州を、西川は遂州を攻めた。
李仁矩の敗死と姚洪の忠節
- 李仁矩は部将の諫言を無視して出撃し大敗、董璋軍に閬州を攻め落とされ一族もろとも殺された。唯一抵抗した姚洪は捕らえられ、董璋への痛烈な罵倒(「天子に背く者に恩を語る資格なし」)ののち、肉を鍋で煮られる惨殺に遭うも最期まで罵り続けた。
唐軍の反攻と孟知祥の戦略
- 唐は董璋の官爵を剥奪し光業を誅殺、石敬瑭を招討使として蜀討伐に向かわせた。知祥は董璋に劍門防衛の重要性を説いたが聞き入れられず、劍門は唐軍(石敬瑭配下)に奪われた。
- 知祥は諸将(李肇・趙廷隱・李筠ら)を急派して劍州を固めさせ、龐福誠・謝鍠らの奇襲(夜襲による疑兵の計)で唐軍先鋒を撃退、劍州の防衛に成功した。
石敬瑭軍の膠着と安重誨の親征
- 石敬瑭は劍門で膠着し、趙廷隱らとの野戦にも敗れて撤退。唐主は自ら西征も考えたが、安重誨が督戦を買って出て出発した。
- 重誨の西行は諸鎮を震撼させたが、鳳翔の朱弘昭は表向き歓待しつつ裏で重誨を讒言し、石敬瑭にも重誨排除を勧める書を送った。石敬瑭も遂州陥落・夏魯奇の戦死で窮地にあり、朝廷に重誨召還を求めた。
重誨の召還と両川の勝利
- 唐主は范延光を新たな枢密使とし、孟漢瓊や王徳妃の讒言もあって重誨を東に召還した。
- 知祥が夏魯奇の首を丁重に返還したことで石敬瑭は戦意を失い撤退、東西両川は利・遂・閬三鎮を制圧、知祥はさらに忠・萬・夔三州も奪い、董璋は東川に撤兵した。
安重誨の失脚と誅殺
- 唐は石敬瑭を咎めず、重誨を非難する方向に傾いた。重誨は鳳翔で朱弘昭に拒絶され、河中節度使に転じさせられた末、致仕を願い出て許された。
- 重誨の二子が無断で河中に父を見舞いに来たことが仇となり投獄され、さらに翟光鄴の密旨を受けた皇姪李從璋が重誨邸を襲い、拝礼を装って重誨を鎚で撃ち、駆けつけた妻張氏ともども惨殺した。
- 唐主はこれを事後に知り、銭鏐との断交や孟知祥・董璋の離間などすべての罪を重誨に帰し、二子も誅殺した(一族の連座は免除)。
評語
安重誨が寵を恃んで専権を振るったことは、身の破滅を招くべくして招いたものである。李從珂を陥れようとした執念、王徳妃との不和による失脚、東西両川討伐での人選の誤り(李仁矩・武虔裕の登用)はいずれも私情優先の失策であった。重誨は自ら死を以て国に報いたと嘯いたが、実際は唐主が正式な処断を下せぬまま李從璋の手にかかって非業の死を遂げたのであり、その死に方には同情の余地があるとも評される。