五代史演義第十九回 郭従謙、門を突きて主を弑し、李嗣源、国に拠り即位す (郭從謙突門弒主 李嗣源據國登基)
石敬瑭の献策と嗣源の決断
- 鄴都で窮地の李嗣源に、左射軍使石敬瑭が「大梁を根拠地とすべし」と献策。突騎都指揮使康義誠も同意し、嗣源は安重誨に檄を回させ大梁へ向かう決意を固める。
- 唐主が遣わした嗣源の長子・李従審は李紹栄に阻まれ引き返す。嗣源からの弁明も紹栄に握り潰され、疑いは深まる一方となる。
唐主の窮迫と劉后の強欲
- 洛陽では水害・財政窮乏の中、唐主は狩猟遊興を続け軍への俸給も滞る。太史の凶兆奏上を受け大臣らが内帑放出を求めるが、劉后は「天命があれば人は畏れるに足りぬ」と拒み、わずかな金銀器と幼子を差し出して見せるだけの空虚な対応をする。
- 河南尹張全義は嗣源の挙兵に連座を恐れ憂死。唐主が慌てて金帛を軍に施しても、兵士の妻子はすでに餓死しており恨み言を返される。
蜀主一族の惨殺
- 伶官景進の讒言を受け、唐主は蜀主王衍一族の処刑を命じる勅書を出すが、樞密使張居翰が「行」の字を「家」に書き換え、随行者の大量殺害を防ぐ。それでも王衍とその母徐氏・妻妾らは処刑され、幼妾劉氏は辱めを拒み自ら死を選ぶ。
洛陽への進撃と唐主の最期
- 李嗣源軍は各地の将(李紹虔・李紹欽・李紹英・安審通・符習ら)を糾合し勢力を拡大、石敬瑭が先んじて大梁を制圧する。唐主は次第に兵を失い、汜水関まで撤退した後さらに洛陽へ戻る。
- 従馬直の郭従謙が反乱を起こし興教門を焼いて宮中に乱入。唐主は自ら奮戦し多くを討ち取るが矢傷を受け、酪漿を飲んだ直後に絶命する(享年四十二)。側近は遺骸を楽器とともに火葬し乱兵の辱めを避ける。
劉后らの逃亡と後始末
- 劉后は唐主の死を見届けず金宝を持って逃走。朱守殷は乱の鎮圧より宮女や財物の私物化を優先し、都は略奪に見舞われる。
- 李嗣源が洛陽に入り略奪を禁じ、唐主の遺骨を収めて丁重に葬らせる。宰相らの勧進を経て監国となる。
皇族粛清と嗣源の即位
- 魏王継岌は西還を図るが渭河で追い詰められ、宦官李従襲の勧めもあって自死を選ぶ。
- 永王存霸・薛王存礼ら唐主の兄弟・皇子の多くが各地で殺害され、克用の子孫はほぼ絶える。劉后も晋陽で出家するが安重誨の命で刺殺される。
- 租庸使孔謙の処刑、宦官・監軍使の粛清など弊政を改める一方、国号は先帝の事業を継ぐとして改めず、柩前即位の礼をもって嗣源は帝位に就く(同光四年を天成元年と改元)。唐主存勗は雍陵に葬られ廟号荘宗となる。
- (詩:国を得るより保つことの難しさ、沙陀の血脈は続いても荘宗の無念は消えぬと嘆く趣旨)
評語
唐主存勗が伶人郭従謙の手にかかって死んだことを、天が示した戒めと評す。優人と戯れる君主が国を治められるはずはないとしつつ、李嗣源についても、部衆に擁立された経緯はやむを得なかったにせよ、大梁を制圧した時点で既に簒奪の意図は明らかであり、洛陽入り後も首謀者を誅殺して先帝の仇を討たず、継岌や通王・雅王らの死にも一言の哀悼すらなかった点を指弾する。群臣の勧進をそのまま受けて即位した様は簒奪に他ならないとし、「莊宗を弑したのは郭従謙だが、従謙に弑させたのは実に李嗣源である」と結ぶ。