五代史演義第八回 父子相姦し刃に遭い、君臣、逆を討ち兇を除く (父子聚麀慘遭剸刃 君臣討逆謀定鋤兇)
梁主、舟遊びで九死に一生
洛陽に戻った梁主朱温は博王友文の献上で宴を開き、船遊びの最中に突風で転覆、辛くも溺死を免れる。以後心疾を病み、夜も安眠できぬほど衰弱した。
岐蜀の不和
蜀主王建の娘・普慈公主が岐王の甥李繼崇に嫁いだが不和となり実家に戻る。岐王は蜀に絶交し、劉知俊らに蜀の興元・安遠軍を攻めさせるが蜀の反撃に遭い敗退、後に知俊は岐でも讒言を受けて没落し秦州に逼塞、さらに後年蜀に降ることになる。
梁主の淫乱と後継争いの萌芽
病篤い梁主は色欲だけは衰えず、養子博王友文の妻・王氏を見初めて寵愛し、代わりに友文への譲位を約束させられる。これを知った友珪の妻・張氏は嫉妬し、夫友珪に急を告げる。
朱友珪の弑逆
友珪は左遷の内示を受け進退窮まり、僕の馮廷諤や左龍虎軍統軍韓勍にそそのかされて兵を集め、深夜に宮中へ乱入。梁主朱温は逃げ回った末、廷諤の刃に貫かれて絶命した(享年六十一)。友珪は遺体を隠して喪を秘し、偽詔で東都の友文を誅殺させ、友文の妻王氏も殺害。さらに偽の遺詔で自ら帝位を継いだ。
外鎮の反発と均王友貞の挙兵
匡国軍・護国軍など各地の節度使は次々と反発し、河中の朱友謙は晋に降った。均王友貞は駙馬都尉趙巖と謀り、天雄軍節度使楊師厚に決起を促す。師厚は将佐の一言に背を押され友貞側に付くことを決意、龍虎統軍袁象先らと呼応して洛陽への内応を固めた。懷州で叛いていた龍驤軍の兵士たちも友貞の偽詔に呼応し、洛陽入りする。
友珪の最期
趙巖・袁象先が禁軍を導いて宮城に乱入すると、友珪は妻子とともに逃げようとするが追い詰められ、馮廷諤に妻を殺させたのち自らも自刃、廷諤も後を追った。都は一日ほど混乱したが夜には鎮まった。
均王友貞の即位
友貞は東都で即位(乾化の年号を存続)、父朱温に太祖の廟号を追贈し、友文の名誉を回復、友珪を庶人に落とす詔を発した。功労のあった楊師厚・袁象先らは厚く封賞され、朱友謙も梁に帰順した。友貞は後に名を鍠、さらに瑱と改めた。
(詩:父の淫乱・子の弑逆という悪行の報いを歎く内容)
梁室はひとまず定まったが、晋はすでに燕を滅ぼしていた――その顛末は次回に語られる。
評語
淫乱を極めた朱温がその子友珪に弑逆されたのは天の報いともいえるが、友珪もまた父殺しの大逆を犯した。半年とはいえ帝位を窃取できたのは、当時の礼教が衰え簒奪弑逆が常態化していたことの表れである。それでも結局は子の手にかかり、あるいは誅されるという因果応報から逃れられなかった。