髙句麗
- 髙句麗は夫餘から出た。伝承によれば、始祖の朱蒙の母は河伯の娘で、夫餘王に室に閉じ込められたが日光に照らされて身ごもり、日の卵ほどの大きさの卵を一つ産んだ。夫餘王はこれを犬・豕・路・野に次々と棄てたがいずれも害されず、鳥が羽で覆って守ったため、王は割ろうとしたが破れず母に返した。母がこれを暖かい所に置くと男児が殻を破って生まれ、朱蒙(「善く射る者」の意)と名づけられた。
- 朱蒙が夫餘人に排斥され馬飼いを命じられた際、駿馬を痩せさせ駑馬を肥やして自分用の馬を確保する知恵を用いた。狩りで一矢しか許されなかったが多くの獣を射止めた。夫餘の臣が朱蒙の暗殺を謀ると、母は密かにこれを告げ、朱蒙は烏引・烏違ら二人と共に東南へ逃れた。大河に阻まれた際、朱蒙が「我は日の子、河伯の外孫なり」と川に告げると魚鼈が浮かび橋となり、渡り終えると橋は消えて追手は渡れなかった。朱蒙は普述水で麻衣・衲衣・水藻衣を着た三人に出会い、共に紇升骨城に至り居を構え、「髙句麗」を国号とした。
- 朱蒙が夫餘にいた頃の妻が産んだ子・始閭諧(のちの閭達)が朱蒙の後を継ぎ、以後、閭達―如栗―莫来と代々継承された。莫来は夫餘を征して大破し、これを併合した。莫来の子孫は代々継承し、裔孫の宮は生まれつき目を開いて物を見ることができ、人々はこれを忌んだ。宮は成長すると凶暴となり国を疲弊させた。宮の曾孫の位宮も生まれつき目が見え祖父の宮に似ていたため位宮と名づけられた(髙句麗語で「似る」を「位」という)。位宮も勇力に優れ弓馬に長け、魏の正始年間に遼西の安平に侵入したが、幽州刺史の毌丘儉に破られた。
- 位宮の玄孫・釗は烈帝(拓跋翳槐)の時代に慕容氏と争い、建国四年(341年)、慕容元真(慕容皝)が南陕から攻め入り木底で釗の軍を大破し丸都に攻め入った。釗は単騎で逃走し、慕容元真は釗の父の墓を暴いて屍を持ち去り、母・妻や五万余の男女、珍宝を掠め、宮室を焼いて丸都城を毀して引き上げた。以後釗は使者を送って朝貢しようとしたが冦讎に阻まれ通じることができなかった。釗は後に百済に殺された。
- 世祖の時代、釗の曾孫の璉が初めて使者を安東に送って表と方物を献じ、あわせて国諱(先祖の諱)を伝えることを求めた。世祖はその誠意を嘉し、帝系と名諱を詔でその国に授け、員外散騎侍郎の李敖を送って璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・領䕶東夷中郎将・遼東郡開国公・髙句麗王に拝させた。李敖はその都の平壌城を訪れ、地勢や風俗を記録した(遼東の南方一千余里、東は柵城、南は小海、北は旧夫餘に至る。魏の時代より民戸は三倍に増え、東西二千里・南北一千余里、民はみな定住し山谷に随って居住し、布帛や皮を衣とする。土地は痩せて蚕農だけでは自給できず節食する風があり、歌舞を好み夜には男女が群れ集い戯れるが淫らではなく貴賤の別なく潔浄を旨とする。王は宮室を好んで営み、官名には謁奢・太奢・大兄・小兄などがあり、頭には折風という弁形の冠をかぶり鳥羽を挿す。立礼は反拱、跪拝は一脚を曳いて行う。十月には天を祭る国中大会があり、その公会では錦繍・金銀で身を飾り、蹲踞して俎几で食する。馬は朱蒙の乗った馬の子孫とされる小型の果下馬である)。
- 以後貢使が相次ぎ、歳ごとに黄金二百斤・白銀四百斤を献じた。馮文通(北燕王)が璉のもとに奔ると、世祖は散騎常侍の封撥を送って文通の引き渡しを求めたが、璉は上書して「文通と共に王化に仕える」と称し送らなかった。世祖は激怒し討伐しようとしたが、楽平王丕らの諌めで後の機会を待つこととした。文通は後に璉に殺された。
- のち文明太后が顕祖の六宮が未だ整わないことを理由に璉にその娘を献じるよう勅すると、璉は「娘は既に嫁いでいる」として弟の娘を代わりに差し出すことを求め、朝廷はこれを許した。安樂王真・尚書の李敷らを送って幣を届けさせたが、璉は左右の者の「昔、朝廷は馮氏と婚姻したがまもなくその国を滅ぼした、殷鑒遠からずだ」という説に惑わされ、上書して娘が死んだと偽った。朝廷はこれを詐りと疑い、假散騎常侍の程駿を送って厳しく問責し、もし本当に死んだのなら別の宗女を選ぶよう求めた。璉は「もし天子が前の過ちを許すなら、謹んで詔を奉じます」と答えたが、顕祖が崩じたためこの件は立ち消えとなった。
- 髙祖の時代、璉の貢献は以前より倍加し、朝廷の返礼もこれに応じて増した。光州が海中で璉が蕭道成(南斉)に送った使者・餘奴らを捕らえたことがあり、髙祖は璉を詔で責めた(蕭道成は主君を弑して江左で号を僭称した賊であり、朝廷はまさに旧邦の滅国を興し劉氏の絶世を継がせようとしているのに、卿は国境を越えて簒賊と通じるのは藩臣の節義に反すると詰り、この一過をもって旧来の誠意を覆さないので、送り返し反省を誓うよう命じた)。
- 太和十五年(491年)、璉は百余歳で死んだ。髙祖は東郊で哀悼の儀を行い、謁者僕射の李安上に策を持たせ車騎大将軍・太傅・遼東郡開国公・髙句麗王を追贈し諡して康とした。さらに大鴻臚を送り、璉の孫の雲を使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領䕶東夷中郎将・遼東郡開国公・髙句麗王に拝させ、衣冠服物・車旗の飾りを賜った。詔で雲に世子の入朝を命じ郊丘の礼にも預からせようとしたが、雲は病と称して辞退し、従叔の升于を代わりに詣阙させた。朝廷は厳しく責め、以後歳ごとに貢献した。
- 正始年間、世祖(世宗の誤りか、宣武帝の時代)は東堂でその使者の芮悉弗を引見した。悉弗は「髙麗は代々誠を尽くしてきたが、貢物のうち黄金は夫餘産、珂(貝の飾り)は渉羅産であり、今や夫餘は勿吉に、渉羅は百済に併呑され二品を献じられない、これは両賊のせいである」と述べた。世宗は「髙麗は代々上将の任を受け専ら海外を制してきたのに、九夷の狡猾な虜にやすやすと征されるのは恥である、責は連率(地方長官)にある、卿は威懐の略を尽くして東裔を安んじ土毛の貢を絶やさぬよう主君に伝えよ」と述べた。
- 神龜年間、雲が死ぬと霊太后は東堂で哀悼の儀を行い、車騎大将軍・領䕶東夷校尉・遼東郡開国公・髙句麗王を追贈する使いを送った。世子の安を安東将軍・領䕶東夷校尉・遼東郡開国公・髙句麗王に拝した。正光初、光州はまた海中で蕭衍(梁)が授けた安寧東将軍の衣冠剣佩および使者の江法盛らを捕らえ京師に送った。安が死ぬと子の延が立ち、出帝の初め詔で延を使持節・散騎常侍・車騎大将軍・領䕶東夷校尉・遼東郡開国公・髙句麗王に加え衣冠服物・車旗の飾りを賜った。天平年間、延に侍中・驃騎大将軍を加えた。延が死ぬと子の成が立ち、武定末に至るまで貢使は絶えなかった。