魏書卷九十九 列傳第八十七 乞伏國仁

隴西鮮卑の興起

  • 鮮卑の乞伏國仁は隴西の出。その先祖の如弗は漠北から南下して五代を経た。祖の祐隣は諸部を併合し部衆は次第に盛んになった。父の司繁は部落を率いて苻堅に降り、南単于とされ、さらに鎮西将軍に拝され勇士川に鎮した。司繁が死ぬと國仁が代わって統治した。
  • 苻堅の司馬昌明(東晋孝武帝)討伐に際し、國仁は前将軍・騎の先鋒とされた。苻堅が敗れると、國仁の叔父の歩頽が隴右で叛いた。苻堅が國仁に討伐を命じると、歩頽はかえって大いに喜んで國仁を推戴し、部落十余万を招集した。太祖(道武帝)の時代、國仁はみずから大都督・大将軍・大単于・秦州・河州牧を私署し、建義と号年し、支配地を十一郡に分けて勇士城を築き都とした。國仁の死後、弟の乞伏乾歸が統治を継いだ。
  • 乞伏乾歸はみずから大都督・大将軍・大単于・河南王を署し、太初と改元して百官を置いた。登国中、金城に遷都したが南門がひとりでに壊れたためこれを嫌い、苑川に遷った。まもなく姚興に破られ枹罕に奔り姚興に降った。姚興は乾歸を河州刺史・歸義侯に封じたが、乾歸は苑川に戻ると姚興に背いてみずから秦王を称し百官を置き、更始と号年して太宗(明元帝)に援軍を求めた。
  • 乾歸が五谿で狩りをした際、梟が手に集まる怪異があった。乾歸はまもなく兄の子の公府に殺され、子の熾磐が公府を殺してその位を継いだ。
  • 乞伏熾磐はみずから大将軍・河南王を称し、永康と改元した。のち秃髮傉檀を樂都で襲って滅ぼし、秦王を私署して百官を置き建洪と改元した。のち尚書郎の莫胡積・射将軍の乞伏又寅らを送って黄金二百斤を貢がせ、赫連昌の討伐を求めた。世祖(太武帝)はこれを許した。世祖が統萬を平定すると、熾磐は叔父の平逺将軍泥頭・弟の安逺将軍度を京師に人質として送り、中書侍郎の王愷・丞相従事中郎の烏訥闐に表と方物を奉じさせた。熾磐が死ぬと子の暮末が継いだ。
  • 乞伏暮末、字は安石跋。即位すると永洪と改元した。尚書の隴西辛進はかつて熾磐に従って後園に遊んだ際、丸を弾いて誤って暮末の母の顔を傷つけたことがあり、暮末はこれをとがめて辛進の五族二十七人を殺した。暮末の弟の殊羅が熾磐の左夫人・秃髪氏を犯した。暮末が知ってこれを禁じると、殊羅は恐れて叔父の什夤と共謀し暮末を殺そうとした。秃髪氏が内から門の鑰を盗んだが誤って門者に告げてしまい、暮末はその一味を尽く殺した。什夤を鞭で打とうとすると、什夤は「我は汝に負くも死しても汝に負かじ」と言った。暮末は怒って什夤の腹を裂き屍を河に投げた。什夤の異母弟の白飬および去列も怒言を発したため殺された。政刑は酷濫を極め内外は崩壊し離散し、民は乱を思うようになった。
  • のち赫連定に逼られ、王愷・烏訥闐を世祖のもとに送って迎えを求め、世祖は安定以西・平凉以東を与えて封じることを許した。暮末は城邑を焼き宝器を毀し戸一万五千を率いて髙田谷に至ったが、赫連定に阻まれ南安に籠もった。世祖は使者を送って迎えようとしたが、暮末の衛将軍・吉毗が内徙すべきでないと諫め、暮末はこれに従った。赫連定は北平公・韋代に一万の兵を率いさせて南安を攻めさせ、城内は大飢饉となり人が人を食う惨状となった。神麚四年(431年)、暮末とその一族五百余人は出降し上邽に送られた。