河西鮮卑南凉の建国
- 鮮卑の秃髮烏孤は八世祖の匹孤が塞北から河西に遷り、その地は東は麥田・牽屯、西は濕羅、南は澆河、北は大漠に接した。匹孤が死ぬと子の夀闐が継いだ。母が夀闐を身ごもったとき被(ふすま)の中で産んだので「秃髪」と名づけたといい、これはその地の風習で被覆(産衣で覆う)の意味である。
- 五世祖の樹機能は壮健で謀略に富み、晋の泰始年間に秦州刺史の胡烈を髙斛堆で殺し、凉州刺史の蘇愉を金山で破り、咸寧年間には凉州刺史の楊欣を丹嶺で斬り、凉州の地をことごとく領した。のち部民の没骨に殺され、従弟の務丸が統治を継いだ。務丸の曾孫の思復犍の代に部衆はやや盛んとなった。思復犍は烏孤の父である。思復犍が死ぬと烏孤が継いだ。
- 皇始初、吕光は烏孤を益州牧・左賢王に拝した。烏孤は大都督・大将軍・大単于・西平王を私署し、太初と号年した。天興初、烏孤はさらに武威王を称して樂都に治を移し、車騎将軍以下を置いて郡県を分立した。烏孤は酒に酔って馬を走らせ、馬が倒れて脇を傷め、「あやうく吕光父子に笑われるところだった」と笑ったが、まもなく死んだ。
- 弟で凉州牧・西平公の秃髮利鹿孤が継いだ。西平に治を移し建和と改元し、朝貢の使いを送った。弟の車騎将軍・傉檀を吕纂に対して差し向けたが、吕纂の兵は精鋭で軍中は大いに恐れた。傉檀は馬を降りて胡床に座り軍の動揺を鎮め、甲を着けて交戦し吕纂の軍を破って二千余級を挙げた。利鹿孤は丞相以下の百官を私署した。利鹿孤が死ぬと弟の傉檀が継いだ。
利鹿孤・傉檀――南凉の盛衰と滅亡
- 秃髮傉檀は凉王を私署し樂都に還り住み、洪昌と号年して朝貢の使いを送った。天賜年間、傉檀は姚興に偽って降ったが、姚興は傉檀を凉州刺史として姑臧に拠らせた。傉檀は沮渠蒙遜と均石で戦い敗れ、さらに赫連屈丐に陽武で破られ、数千騎で南山に奔りあやうく追撃兵に捕らえられかけた。東西からの侵冦を恐れ、周辺三百里内の民を姑臧に移した。
- 姚興が隙に乗じて将の姚弼らを城下に送ると、傉檀は牛羊を野に放って敵の略奪を誘い、掠奪に散った姚弼の軍を分けて撃ち大破した。姚弼は退いた。傉檀は改めて凉王を自署し百官を置いて嘉平と号年した。
- 永興年間、傉檀は総力を挙げて沮渠蒙遜を伐ったが窮泉で敗れ、単騎で姑臧に帰った。蒙遜に滅ぼされることを恐れて樂都に遷ったが、蒙遜は兵で樂都を囲み、室を築いて耕作させ持久の構えを見せた。傉檀は子の保周を人質として蒙遜に送り、蒙遜はようやく兵を退いた。
- 神瑞初、傉檀が騎を率いて乙弗の虜を撃ち大いに戦果を挙げていた隙に、乞伏熾磐が虚を襲って樂都を陥れ、傉檀の子の虎臺以下を捕らえた。傉檀はこれを聞いて「熾磐に帰れば奴僕とされる、妻子が他人の懐にいるのを見るには忍びない」と言い、軍を率いて西へ向かったが衆はみな離散した。
- 傉檀は「蒙遜も熾磐も昔はみな私に臣従していた、それが今や彼らに帰服するとは何と卑しいことか。四海は広いのに身を容れる所がない、何と痛ましいことか」と言い、なお歎いて「私は老いた、妻子に会って死のう」と言い、ついに熾磐に降った。熾磐は上賓の礼で遇し驃騎大将軍・左南公に封じたが、一年余りで鴆殺した。傉檀の末子の賀は後に来奔し、別に伝がある。