魏書卷九十九 列傳第八十七 張寔

張寔、字は安遜。安定郡烏氏の人。父張軌が晋末の混乱に乗じて凉州刺史となり河西に自立の基盤を築いたのを継いで、実質的に前凉政権を主宰した。晋の混乱のさなか凉州のみ無事だったが、次第に驕り高ぶり左右の閻沙らに殺された。子孫の張茂・張駿・張重華・張祚・張天錫と続いた前凉は、苻堅に破られて滅んだ。

年表(4件)
  • 平文皇帝
  • 四年張寔、左右の閻沙らに殺される
  • 永嘉五年311年晋が張軌を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任じ霸城侯に封じる
  • 建国九年346年張駿死去し子の張重華が継ぐ
  • 昭成末苻堅が凉州を破り張天錫が降る

出自と凉州統治の始まり

  • 張寔、字は安遜。安定郡烏氏の人。父は張軌、字は士彦、散騎常侍。晋の皇室の混乱を見て隠然と河西に拠点を築こうと図り、みずから凉州刺史となることを求め、持節・䕶羌校尉・凉州刺史に任じられた。
  • 桓帝(拓跋猗㐌)が西方を経略した際、張軌は使者を送って方物を貢いだ。晋は安西将軍の号を加え、安樂郷侯・食邑千戸に封じた。永嘉五年(311年)、晋は張軌を鎮西将軍・都督隴右諸軍事とし、霸城侯に封じ、まもなく車騎大将軍・開府儀同三司に進めた。愍帝の即位後は司空に進み西平公(食邑三千戸)に封じられ、のち侍中・太尉・凉州牧を拝した。
  • 張軌は老いて病が多く、子の張寔に撫軍大将軍・副凉州刺史を拝させた。まもなく張軌は中風で長く臥し、三子が交代で州事を代行し、外部との音信を絶ったため誰も実情を知らなかった。張軌は天文に通じ、州内に賊が起こるたびに病床から天を仰いで「害をなす者はいない」と言い、その通りになった。
  • 張寔が実権を継承すると、愍帝は使持節・都督凉州諸軍事・西中郎将・凉州刺史・領䕶羌校尉・西平公に任じた。劉曜が長安を陥落させると、張寔はみずから侍中・司空・大都督・凉州牧を称して政務を代行した(承制行事)。当時天下は喪乱にあり、秦州・雍州の民は十人のうち八、九人が死んだが、凉州だけは無事だった。張寔は勢いを恃んで驕り高ぶるようになった。
  • 平文皇帝(拓跋鬱律)四年、張寔は左右の閻沙らに殺された。先立って「蛇利砲、蛇利砲、公の頭が地に墜ちるも気づかぬ」という謡があり、張寔の住む室の梁の間に、人の形をしているが頭のない像が現れていた。張寔はこれを不吉として気にかけていたが、まもなく殺された。

張寔死後の後継――茂・駿・重華

  • 弟の張茂が統治を継いだ。字は成遜。使持節・都督凉州諸軍事・平西将軍・䕶羌校尉・凉州牧・西平公を私署し、閻沙ら百余人を誅殺して晋に朝貢した。張茂の妻の弟である賈模兄弟が張茂の殺害を謀ったが、張茂はこれを討った。劉曜が隴山を越えて迫ると、張茂は恐れて劉曜に降り、劉曜は張茂を太師・凉王とした。張茂は子がないまま死んだ。
  • 張寔の子・張駿が継いだ。字は公庭。使持節・大将軍・䕶羌校尉・凉州牧・西平公を自称し、晋に朝貢した。煬帝(前趙劉曜の後、実質は成漢李雄期の混乱期を指す)の時、隴西の辛晏が枹罕をもって降ったため河南の地を得、狄道まで至って石勒と境を分けた。
  • 張駿は南城を築いて謙光殿を建て、極めて贅を尽くした。さらに四方に東の宜陽青殿・南の朱陽赤殿・西の正徳白殿・北の𤣥武黒殿を建て、器物はすべて方角の色に従わせ、周囲の官署もそれぞれの方角の色に合わせた。この僭上ぶりのため民は労役を怨んだ。
  • 張駿が石田を耕作しようとした際、参軍の索孚が「農政は天機に逆らわず地徳を損なわぬのが道理であり、石を運んで田とすれば費用に比して収穫は乏しい」と諫めたが、張駿は怒って索孚を伊吾都尉に左遷した。
  • 破胡で隕石が墜ち、その音は七百里に響き、気は黒煙となって立ち上ったという怪異があった。張駿は若い頃から淫佚で夜に微行して邑里の不良に交わり、貪欲で隴西・秦州を併呑する野心を持っていた。穀物や布帛を民に貸し与えて利息を倍取りし、返せぬ者は田宅を没収した。
  • 武威・武興・西平・張掖・酒泉・建康・西海・西郡・湟河・晋興・広武の十一郡を凉州とし、長子の張重華を刺史とした。金城・興晋・城武・始南安・永晋・大夏・武城・漢中の八郡を河州とし、寧戎校尉の張瓘を刺史とした。敦煌・晋昌・髙昌・西域都䕶・戊巳校尉・玉門大䕶軍の三郡三営を沙州とし、西胡校尉の楊宣を刺史とした。
  • 張駿はみずから大都督・大将軍・仮凉王を私署し三州を統轄した。祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者などの官を初めて置き、官号はすべて天朝(晋朝)に模しつつその名を微妙に変えた。舞は六佾を用い、豹尾車や服・旌旗もすべて王者のごとくとした。
  • 張軌が凉州を保てたのは隂澹の力によるものだったが、張駿は隂氏一門の勢力が強盛なのを忌み、隂澹の弟隂鑒に自殺を強いた。これにより人心を大いに失った。張駿は病の折に隂鑒の祟りを見て死んだ。建国九年(346年)のことである。子の張重華が継いだ。
  • 張重華、字は太林。使持節・大都督・太尉公・䕶羌校尉・凉州牧・平西公・仮凉王を私署した。石虎が麻秋に軍を率いさせて黄河を渡り長最に城を築かせ、凉州は震動した。司馬の張耽が主簿の謝艾を推薦し、張重華はこれを用いた。謝艾は麻秋を撃破し、その将の纂母安らを斬り、一万五千人を捕虜または斬った。張重華は使者を送って朝貢し、みずから丞相・凉王を署して秦・雍・凉三州牧を領した。張重華が死ぬと子の張曜靈が継いだ。

張祚の簒奪と滅亡

  • 張曜靈は十歳、みずから大司馬・凉州牧を称し、張重華の兄の張祚を撫軍将軍として輔政させた。張祚は以前から張重華の母の馬氏と密通しており、馬氏に「曜靈は幼弱であるから、長君を立てるべきだ」と説いた。馬氏はこれに従い、曜靈を廃して張祚を立てた。曜靈はまもなく張祚に殺された。
  • 張祚、字は太伯。統治を継ぐと大将軍・凉州牧・凉公を自称し、専ら姦悪暴虐をふるった。張駿・張重華の未婚の娘たちをことごとく淫し、凉州の人々はみな『詩経』の牆茨の詩(宮中の醜聞を諷す詩)を作って諷刺した。
  • かつて張重華の末年、螽斯(いなご)が安昌門外に集まり壁を逆さに這った怪異があり、都尉の常拠は「螽斯は張祚の幼名であり、それが逆行するのは大きな凶兆だ」と諫めたが、張重華は「子孫繁昌の兆しだ」と取り合わなかった。張重華は生前、張祚が摂政となり周公のように世子を輔佐する夢を見たが、結局張祚は曜靈を殺した。
  • 張祚はみずから凉王を署し、宗廟を立て百官を置き、和平元年と号して朝貢の使いを送り、張軌以下に王号を追贈した。謝艾を酒泉で濫殺した。郎中の丁琪がこれを諫めると、張祚はその僭越をとがめて丁琪を闕下で斬った。諸々の神祠を廃し、山川は枯渇した。五都尉を置いて人々の姦を取り締まらせ、四品以下の官には繒帛を着ることを禁じ、庶人には奴婢の飼育・車馬の使用を禁じたため、百姓は怨憤した。
  • 車蓋のような光や雷鳴のような音が城邑を震わせる怪異が起き、仲夏に霜が降りた。ある神が降臨し「𤣥冥」と自称して人と語り合った。張祚は日夜これを祈ったところ神は福利を約束したため、張祚は深く信じた。人々は張祚が必ず滅びると知っていたが、張祚の暴虐はいよいよ甚だしくなった。
  • 翌年、張祚の河州刺史・張瓘が挙兵して張祚を討ち、驍騎将軍の宋混がこれに呼応して姑臧を攻めた。張祚は侍中の索孚を送って張瓘を討たせたが、王鸞という者が「この出兵は必ず敗れる」と予言し、あわせて張祚の三つの不道を並べ立てた。張祚は妖言惑衆として王鸞を斬った。王鸞は刑に臨んで「私が死んだ後、軍は外で敗れ、王は内で死ぬだろう」と言い、張祚はその一族を滅ぼした。
  • 宋混が姑臧に至ると、領軍の趙長らが宮門を開いて呼応し、宮殿に入って万歳を称えた。張祚は趙長らが宋混の軍を破ったと思い込んで慰労に出たところ、趙長は矛で張祚の額を刺した。張祚は逃げて厨房の徐黒に殺され、屍は道端にさらされ、城内はみな万歳を称えた。張瓘らは張重華の末子・張元靖を立てて後を継がせた。

張天錫と前凉の終焉

  • 張元靖、字は元安。使持節・大都督・大将軍・凉王を自称し、張瓘を尚書令・凉州牧として政を執らせ、宋混を尚書僕射とした。張瓘は好悪によって賞罰を行い、綱紀はなかった。郎中の殷郇がその損益を諫めたが、張瓘は「虎の子は生まれて三日で肉を食う、人に教わる必要はない」と取り合わず、以後諫言する者はいなくなった。
  • 張瓘が張元靖と共に城を出た際、城北の大橋の三本の梁が同時に折れる怪異があり、張瓘はこれを不吉として日々銭帛を散じて私恩を施した。しかし都の街では殺人が絶えず、乱を望む者が十戸のうち九戸にのぼった。東苑の大塚に忽然と池水が現れ、城東の大澤の地が忽然と火を発して数里に広がったため、水火の変に応じるとして宿嫌の牛旋らを殺した。
  • 張瓘は宋氏一族の誅滅を謀り、張元靖を廃して自立しようとした。かねて太白が輿鬼を守る天文の異変があり、占者は「州分に暴兵が起こる」と占っていたため、張瓘はこれを厭勝しようとしたが、逆に宋混が兵を率いて張瓘を誅した。張瓘は妻子三十人を先に殺してから自殺した。張元靖は宋混を驃騎大将軍・尚書令とした。
  • 宋混が病死すると弟の宋元安が代わって輔政した。旱に際し石山に祈るため元安が登ろうとしたが、その弟の名が世宗(北魏世宗)の諱に触れる字であったため、「この山に登る者は家を破り身を亡ぼす」と言われた。元安は「そんなことがあろうか」と馬で駆け登ったが、馬は倒れて足を傷めた。
  • 御史房の柱がひとりでに燃えて折れる怪異もあった。ある者が「柱の字は左に木、右に主。宋の字は木を含み、木が焦げれば宋は破れ主は残る、大きな凶兆だ」と警告した。さらに乗馬五匹が一夜で髭と尾が禿げる怪異もあり、「尾の字は尸の下に毛、毛が尸を去るのは滅びの徴だ」と言われたが、元安は「吉凶は天にあり、どうしようもない」と意に介さなかった。
  • まもなく元安の司馬・張邕が挙兵して元安を殺し、宋氏を尽く誅した。先立って「宋を滅ぼす者は田土の子」という謡があり、張邕の別名は「野」であった。張邕は刑殺が過度で内外はまた乱を思うようになった。張駿の末子・張天錫は民心に乗じて挙兵し張邕を殺し、冠軍大将軍として輔政した。張元靖の庶母・郭氏は張天錫が権力を専断し張氏の疎宗であることを嫌い誅殺を謀ったが、事が発覚し張天錫は張元靖を殺してみずから立った。
  • 張天錫、字は純嘏、一名公純。使持節・大都督・大将軍・䕶羌校尉・凉州牧・凉王を私署した。泥中に火が燃える怪異があった。張天錫は驕慢淫昏で民政を顧みず、元日に寵臣と酒色に耽って群臣の朝賀を省みず、母の従事中郎・張慮が棺を輿に載せて痛切に諫め大覲を求めても聞き入れなかった。
  • 昭成(拓跋什翼犍)の末、苻堅が将の茍萇を派遣して凉州を伐ち破ると、張天錫は茍萇に降った。かつて張駿の時代に「劉新婦、米を簸き、新婦炊ぐ羖羝(牡羊)、蕩滌して簸けば張兒、張兒これを食らって口正しく披く」という謡があり、姑臧および諸郡国の童子たちが皆歌っていた。これは劉曜・石虎が相次いで凉州を伐ちながら成し得ず、ついに苻堅の時代に降ったことを指すという。
  • 張天錫は長安に至り、苻堅は尚書に任じたが、苻堅が寿春で敗れると張天錫は建康(東晋の都)へ奔った。