魏書卷九十五 列傳第八十三 徒河慕容廆
徒河の鮮卑、慕容廆(?–建国四年頃)。遼西に興った鮮卑の一族を継ぎ、その子元真(皝)が燕王を称して前燕の基礎を築いた。子孫の儁・暐の代に皇帝を称して華北に覇を唱えたが苻堅に滅ぼされ、のち垂が後燕を、徳が南燕を再興するなど一族は各地に分立と興亡を繰り返し、最終的に後燕は北魏・馮跋に、南燕は東晋の劉裕に滅ぼされた。
年表(11件)
- 建国二年太祖、元真の娘を后に迎える
- 建国四年元真、朝貢し龍城・和龍城を築いて都とする
- 建国十五年儁、皇帝を僭称し年号元璽、国号大燕とする
- 建国十六年儁、薊から鄴に遷都し年号を光寿とする
- 太祖
- 七年苻堅が淮南で敗れると慕容垂が叛き苻丕を鄴で攻める
- 登国元年沖の将韓延が沖を殺し段随を燕王に立てる(西燕の内訌)
- 登国元年慕容垂、皇帝を僭称し年号建興、中山に宗廟社稷を建てる(後燕建国)
- 登国十年垂、太子宝に南寇させるも参合陂で太祖に大破される
- 皇始元年太祖の南伐で信都陥落、宝は柏肆で夜襲も撃破され中山から薊に奔る
- 皇始二年慕容徳、滑台に南走し燕王を称し年号燕元とする(南燕建国)
- 天賜五年劉裕、慕容超を伐ち大峴を越える(南燕の滅亡)
徒河慕容廆・慕容皝(元真)
- 徒河の慕容廆、字は弈洛瓌、その先は昌黎の出。曾祖の莫護跋は魏初、諸部落を率いて遼西に入り、司馬懿に従い公孫淵を討って率義王を拝され棘城の北に建国した。祖父の木延は毌丘倹の高麗遠征に従軍し左賢王を、父の渉歸は鮮卑単于となり遼東に遷った。
- 渉歸の死後、廆が部落を継ぎ、遼東が遠いとして徒河の青山に移った。穆帝の世、東部の患となったが左賢王普根に撃退され和親を修めた。晋の愍帝は廆を鎮軍将軍・昌黎遼東二国公とした。平文帝の末、廆は再び東部を侵して撃破した。王浚が制を称して廆を散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于としたが、廆は王命によらないとして拒んだ。廆の死後、子の元真(皝)が跡を継いだ。
- 元真、小字万年(名は恭宗の廟諱に触れるため元真と表記)。弟の仁が遼東の平郭で叛くと討ち斬り、燕王を号し官制は魏武の輔漢の故事に倣った。石虎が元真を伐ったが撃退し、建国二年、帝は元真の娘を后に納れた。元真は石虎に反攻して高陽に至り、幽冀二州の三万戸を掠めて帰った。四年、朝貢し、龍城・和龍城を築いて都とした。
- 元真は高麗を征して大破し、丸都に入り高麗王釗の父利の墓を掘って屍と母・妻・珍宝を奪い、男女五万余人を掠め宮室を焼いて丸都を破壊して帰った。釗は単馬で逃げ、のち元真に臣従した。元真の死後、子の儁が跡を継いだ。
慕容儁・慕容暐(前燕の盛衰)
- 儁、字は宣英。石氏の乱と聞いて兵を整え、盧龍から薊城を克して都とし、さらに中山・常山を克し、魏昌廉台で冉閔を大破して捕らえた。閔の太子叡が鄴城を守ったが鄴も陥落させた。建国十五年、儁は皇帝を僭称し年号を元璽、国号を大燕とした。十六年に朝貢し、薊から鄴に遷都し年号を光寿とした。儁の死後、子の暐が跡を継いだ。
- 暐、字は景茂、儁の第三子。年号を建熙とした。国が乱れる兆しとして湘女と称する神が鄴に現れ数日で消える怪異があった。晋の桓温が北伐して枋頭に至ると、暐の叔父の垂がこれを撃退したが、大功に賞を与えられぬどころか殺されかけたため堅に奔った。堅は将の王猛を遣わして鄴を攻め、暐を捕らえ新興侯に封じたのち尚書とした。
- 太祖の七年、苻堅が淮南で敗れると垂が叛いて苻丕を鄴で攻め、暐の弟の済北王泓は闗東で鮮卑数千を集めて自立、大都督・大将軍・雍州牧を称し、垂を丞相・大司馬・冀州牧・呉王に推した。堅の将張永の軍は泓に敗れ、泓の衆は十余万に膨れ、堅に「秦は無道で我が社稷を滅ぼしたが、天は秦を傾け大燕を復興させようとしている。虎牢を境に天下を分け、永く隣好を保とう」と迫った。
- 堅は怒って暐を「破滅したのに帰りたがるのか」と責め、暐は叩頭して涙ながら謝罪した。堅は「これは三豎の罪であり卿の過ではない」と赦し、暐に垂・泓・沖への招諭を命じたが、暐は密かに泓に「秦の命数は尽きた、大業を興せ」と伝え、泓は長安に進軍し年号を燕興とした。
- 泓の謀臣髙蓋・宿勤崇らは泓の徳望を評価せず、弟の沖が法を厳しくすることを恐れて泓を殺し、沖を皇太弟として擁立した。沖は堅の子暉の軍を大破し阿房に進駐した。堅が滅ぼした燕の清河公主(沖の姉、年十四)は堅の寵妃となり、沖自身も龍陽の姿で堅に幸された。長安では「一雌復一雄雙飛入紫宫」との民謡が咸に乱を懼れさせ、王猛が諫めて堅は沖姉弟を出したが、姉の死には燕后の礼で葬った。「鳳皇鳳皇止阿房」との謡もあり、堅は梧竹を植えて鳳皇(沖の小字)を待ったが、結局沖は堅を滅ぼす賊として阿城に入った。
- 暐は堅に拝謁し「弟の沖は義を知らず孤(暐)に背いた、臣の罪は万死に値する」と謝罪、堅は暐の二子の婚礼にかこつけた暐邸への行幸を許した。暐は術士の王嘉に「椎蘆作籧篨不成文章」の占を得たが、大雨のため羊を殺せず暐が堅を殺す計画は果たされなかった。暐は城内の鮮卑千余人を利用し堅殺害を謀ったが、鮮卑の突賢の妹(竇衝の小妻)を通じて露見し、堅は暐父子と宗族、城内の鮮卑を老若男女問わず皆殺しにした。
- 廆の弟の運の孫、永について。永、字は叔明。暐が苻堅に滅ぼされたのち永は長安に徙され貧しく夫婦で市で靴を売って暮らしたが、暐が堅に殺されると沖は永を小将とした。沖と左将軍茍池が驪山で戦った際、永は力戦して池ら数千級を斬った。堅は激怒して楊定に精騎二千五百を率いさせ沖を大破し、捕らえた鮮卑一万余をことごとく生き埋めにした。堅はまた沖の右僕射慕容憲を灞滻の間で破った。定は勇猛で沖はこれを憚り、永の計で馬埳を穿って自固し、永を黄門郎に遷した。
- 沖は関中を毒害し、堅が五将山に出ると入って長安を大掠した。堅の未乱の頃「関中に土然(黒煙)が起こり月余り消えなかった」怪異や、「欲得必存當舉煙」「長鞘馬鞭撃左股太嵗南行當復虜西人呼徒河為白虜」などの謡があった。沖は長安を得て帰るのを忘れ、慕容垂の威名を憚って攻め上らず久安の計を課したため衆に怨まれた。
- 登国元年、沖の左将軍韓延が民の怨みに乗じて沖を殺し、沖の将段随を燕王に立て年号を昌平とした(沖の入長安に際し王嘉が「鳳皇鳳皇何不高飛還故郷、無故在此取滅亡」と評した通りとなった)。沖の敗将慕容恒は永と謀って段随を襲殺し、宜都王の子覬を燕王に立て年号を建明、鮮卑男女三十余万を率いて長安を離れ東行した。恒の弟護軍将軍韜が異心を抱いて覬を臨晋で殺すと恒は怒って去り、永は武衛将軍刁雲と韜を攻めて執らえて戮した。恒は沖の子望を帝に立てたが(年号建平)、衆はことごとく望を棄てて永に走り、永は望を殺し、慕容泓の子忠を帝に立て(年号建武)、太尉・尚書令・河東公とされた。
- 刁雲らが忠を殺し永を大都督・大将軍・大単于・雍秦梁凉四州牧・河東王に推し、垂に藩を称した。苻丕が平陽に至ると永は道を借りて東帰しようとしたが丕は許さず討伐、永はこれを撃退して長子に拠り、皇帝を僭称し年号を中興とした。垂が丁零の翟釗を滑台で攻めると釗は永に救援を求め、永の議で張騰の主張により救援したが、釗は敗れて永に降った。永は釗を車騎大将軍・東郡王としたが釗はやがて永を殺そうとして誅された。
- 垂は将の張崇に永の弟武郷公友を晋陽で攻めさせ、永は尚書令刁雲に五万を率いさせ潞川に屯した。垂は太行軹関から進み、木井関から入って永の従子征東将軍小逸豆帰を破り、永自身も臺壁で垂に敗れて長子に還り籠城した。大逸豆帰の部将が内応して垂を導き、永は北門から逃れようとして捕らえられ斬られた。刁雲・大逸豆帰ら三十余人も斬られ、永の統べた新旧の民戸と服御・図書・器楽・珍宝はことごとく垂の手に帰した。
慕容垂(後燕の建国)
- 垂、字は道明、元真の第五子。元真に寵愛され「破人家(人の家を破る)」の意で名付けられた霸の字を「業(人の家を成す)」の意に改めさせた逸話がある。落馬で歯を傷めてからは名を垂に改めた(慕郤缺の故事にちなむとしつつ実は忌避の意)。十三歳で偏将となり出征のたびに三軍随一の勇を示した。儁の中原平定に前鋒として大功を立て、儁の即位後は黄門郎、安東・冀州牧、吳王に封ぜられ、龍城鎮とともに東北の和を大いに得た。
- 鎮東・平州刺史・征南大将軍・荆兗二州牧・司隸校尉を歴任し、車騎大将軍として桓温を枋頭で破って威名を震わせたが暐に容れられず苻堅に奔った。堅は重んじて冠軍将軍・賔都侯に封じた。堅が淮南で敗れて垂の軍中に入った際、子の宝は堅殺害を勧めたが垂は堅の厚遇を思って聞かず、洛陽で墓参りを求めて許された。
- 垂は苻丕を鄴で攻め、漳水を引いて城を灌漑したが(水位は城壁まで一尺足らず)、丁零の翟斌の恨みを買って堰を決壊させられ鄴は陥ちなかった。垂は燕王を称し百官を置き年号を燕元とした。鄴を去って苻丕の西帰の道を開いたが、丕が鄴に留まり司馬昌明(東晋孝武帝)に援を求めると、垂は怒って再進軍し丕は并州に逃れた。垂は兄子の魯陽王和を南中郎将として鄴に鎮させ、中山に都した。
- 登国元年、垂は皇帝を僭称し年号を建興、中山に宗廟社稷を建て、幽冀平州の地を尽く領した。三年から五年にかけて太祖は九原公儀・陳留公虔・秦王觚を相次いで垂に使者として遣わしたが、垂は觚を留めて返さず、以後使者の往来は絶えた。
- 垂は慕容永討伐を議し、太史令靳安は「彗星が尾箕の分を経ており燕は野死の王が出て五年を出でず国が滅ぶ、しかし歳が鶉火にあれば長子を克す」と説いた(靳安は密かに太祖の興隆を知っていたが言わなかった)。丁零の翟遼は垂に叛き、謝罪も許されぬと大魏天王を自称して衆数万を擁したが死に、子の釗が跡を継ぎ、垂の滑台平定後に長子の永の下に奔った。
- 諸将は永国がまだ隙を見せていないとして長子征伐を諫めたが、垂は弟の范陽王徳の同意を得て「投老(老いてなお)叩囊底智以て克つに足る」と決断、歩騎七万で永を伐ち克した。十年、垂は太子の宝に来寇させた。太祖は河南宮にあり、津に台を築いて威武を示し、陳留公虔・太原公儀・略陽公遵らを配して包囲の陣を敷き、宝の行人を捕らえて情報を断った。
- 宝は南渡を図ったが大風で船数十艘が漂流し、将士三百余人が捕らえられた(太祖は皆に衣服を与えて帰した)。宝出征の折、垂は既に病んで五原まで自ら来たが、太祖は行路を断って父子の音信を絶ち、偽の伝言で「汝の父は既に死んだ」と告げさせ、宝軍を動揺させた。宝出征時に車軸が理由なく折れる凶兆があり、占工靳安は帰還を勧めたが宝は従わず、のち安に問うと「速やかに去れば免れる」と答え、宝は大いに恐れた。
- 冬十月、宝は船を焼いて夜に遁走したが、河の氷がまだ張っていないと判断し斥候を置かなかった。十一月、氷が急に張り太祖は河を渡って精鋭二万余騎で急追、参合陂で宝軍を捕捉した。靳安は西北風が追撃軍の兆しだと警告したが宝は備えず、軍は行軍十余里で解鞍して眠り込んだ。太祖軍は夜明けとともに山を登り営を見下ろして急襲、宝軍は氷上で将棋倒しになり死傷万を数え、宝と諸父兄弟は単騎で散り散りに逃げた。四、五万の宝軍は一時に武器を放り降伏し、逃れ得た者は千余人に過ぎなかった。太祖は王公文武将吏数千を生擒し、宝の寵妻・宮人・器甲・輜重・軍資十余万を得た。
- 垂は再び侵攻を図ったが太史が「太白が西方に没し数日後東方に現れるのは躁兵先挙者亡の兆」と諫めても従わず、山を鑿ち道を開いて宝の敗地に至り、積み重なった白骨に祭りを行うと死者の父兄子弟が慟哭して山川を震わせた。垂は慙り憤って血を吐いて発病し、上谷で死んだ。宝が跡を継いだ。
慕容寶・蘭汗簒奪・慕容盛
- 寶、字は道祐、小字庫勾、垂の第四子。若くして軽率だったが太子となってからは自ら努めて名士の称賛を得た。垂の妻段氏は垂に「寶は資質雍容だが柔弱で決断力に欠ける、平和なら仁明の主だが乱世には向かない」と危惧を述べ、趙王麟の姦詐を警戒すべきと進言したが垂は聞かず、寶はこれを深く恨んだ。
- 寶は僭立し年号を永康とした。麟に迫られた母段氏に「主上は大統を継げないと言われている、早く自裁せよ」と迫らせたが、段氏は「汝ら兄弟が母を殺そうとするなら国の滅亡も遠くない」と怒って自殺した。母の諌めによる廃嫡議は無効とされ、喪も簡略化された。
- 皇始元年、太祖は南伐して信都を克し、宝は柏肆で夜襲を仕掛けたが太祖に撃破され、中山から万余騎で薊に奔った。子の清河王会は龍城を守っていたが宝の被囲を聞いて赴援、途上で宝から軍を奪われ弟の遼西王農らに授けられたことに怒り農を襲殺、隆の勧めにも従わず会を討ったため、会は宝を龍城で包囲したが侍御郎髙雲に敗れ中山に奔り、慕容普隣に殺された。
- 宝は龍城から南進しようとしたが衆は出征を嫌って逃散、垂の舅蘭汗に阻まれ薊に走った。汗は迎えると偽って宝を殺そうとしたが、宝は范陽王徳が制を称すると聞いて辟陽に潜んだ。汗は再度迎えを送り、宝は汗が垂の従舅で子の盛の舅でもあるとして疑わず龍城に戻ったところ殺され、子弟ら百余人も殺された。汗は大都督・大単于・昌黎王を自称し年号を青竜としたが、盛の婿である縁で盛は宥された。
- 盛、字は道運、寶の長子。垂により長楽公に封ぜられ散騎常侍・左将軍を歴任、寶の即位後は征北大将軍・司隷校尉・尚書左僕射に進んだ。蘭汗が寶を殺すと盛を侍中・左光禄大夫とし、盛は汗兄弟を離間させ、李旱・衛雙・劉志・張真ら汗の旧知や太子穆を腹心として取り込み、酒宴に乗じて汗父子らを襲殺した。
- 盛は皇帝を僭称し年号を建平のち長楽と改め、自ら庶民大王を号した。寶が闇愚で決断力に欠けたことから盛は極めて峻厳な威刑を敷き、些細な嫌疑にも容赦なく処断したため上下震え離反する者が続出、前将軍段璣らが夜に禁中で鼓譟して盛を襲った。盛は自ら戦って衆を撃退したが暗闇の中で賊に傷つけられ、輦で殿に昇り禁衛を戒めたが叔父の河間公熙が到着する前に死んだ。
慕容熙・慕容雲
- 熙、字は道文、小字長生、垂の末子。群臣と盛の伯母丁氏は「一族の多難にかんがみ長君を立てるべき」と盛の子定を廃して熙を迎え立てた。熙は定を殺し年号を光始とした。龍騰苑(周囲十余里)を築き役徒二万を動員、景雲山(高さ十七丈)や逍遥宮・甘露殿など数百の宮殿群を造営、天河渠を鑿って水を苑内に引き、妻苻氏のために曲光海・清涼池を鑿ったため、盛暑の労役で多数が中暑死した。
- 熙が城南の柳の木の下で「大王よお止まりください」との声を聞き木を伐らせると丈余の蛇が現れる怪異があり、これを悪んで寶の諸子を尽く殺し、年号を建始と改めた。妻のために承華殿を築き、北門に土を負い、土と穀物が同じ価になるほど労役を課した。典軍の杜静は棺を載せて闕に至り極諫したが斬られた。
- 妻が盛夏に凍った魚膾を、仲冬に生の地黄を欲しがると、有司はいずれも切責され死罪すら課された。苻氏の死に際し、熙は屍を抱いて「体はもう冷えて命が絶えた」と悲号し、絶息するほど哀しみ、斬衰して粥を食い、大斂の後には屍と交わろうとした。有司に涙の有無を検査させ、涙のない者は罪に問われたため群臣は辛味を塗って涙を出す有様であった。葬送では熙は被髪徒跣で轜車に従い、高大な城門を毀して出棺させたため、長老は「慕容氏は自ら門を毀した、もう入ることはあるまい」と評した。
- 中衛将軍馮跋兄弟は門を閉ざして熙を拒み、捕らえて殺し、夕陽公雲(寶の養子、高氏に復姓)を主に立て年号を正始とした。跋はのち雲も殺して自立した。
徒河慕容懿
- 元真の少子徳の話に先立ち、熙の幽州刺史上庸公慕容懿が遼西を挙げて太祖に降った経緯が記される。太祖は懿を征東将軍・平州牧・昌黎王としたが、のち反して誅殺された。
慕容徳(南燕の建国)
- 徳、字は元明、兄の垂に重んじられた。桓温が枋頭に至った際、垂とともにこれを撃退した。苻堅が暐を滅ぼすと徳は張掖太守となり、垂の即位後は范陽王・車騎大将軍・司隸校尉に封ぜられ、のち司徒に遷った。寶の即位後は鄴に鎮し、のち丞相を拝したが、寶が東走すると群僚に尊号を勧められても徳は従わなかった。
- 皇始二年、太祖が中山を抜くと衛王儀が鄴を攻めたため、徳は戸四万を率いて滑台に南走し、燕王を称し年号を燕元とした。冠軍将軍苻広が乞活壘で叛くと、兄子の和に滑台を守らせて広を斬ったが、和の長史李辯が和を殺して城を挙げて降った。
- 徳は拠点を失い衆議を求め、給事黄門侍郎張華は彭城の奪取を勧めたが、尚書潘聡は「青斉は沃壌で東秦と呼ばれ、方二千里・戸十余万・四塞の固・負海の饒があり、これを取って関中・河内に代えるべき」と献策、徳は従って薛城を克し、徐兗の民は皆帰附した。南海王法を兗州刺史に、潘聡を徐州刺史に任じて莒城を守らせ、広固を北伐した。
- 晋の幽州刺史辟閭渾は徳の来襲に八千余戸を広固に移して備えたが、崔誕・張豁ら現地の官がことごとく降ったため渾は恐れて妻子を連れ北走、徳の追騎に斬られた。渾の少子道秀が父と共に死のうとしたのを徳は「渾は不忠だが子は孝である」として特赦した。
- 徳は広固に都し皇帝を僭称し年号を建平とした。女水が涸れたのを悪んで病に伏し、兄子の超が女水への祈祷を求めたが徳は許さず、超を太子に立てて死んだ。
慕容超(南燕の滅亡)
- 超、字は祖明、徳の兄北海王納の子。僭位して年号を太上とした。青州刺史北地王鍾・兗州刺史南海王法らの叛乱をことごとく平定した。南郊の祭祀で柴を焚いた際に炎は上がるが煙が出ない怪異があり、霊台令張光は「火盛んにして煙滅す、国は亡びるのでは」と評した。
- 天賜五年、晋の劉裕が超を伐つと、将の公孫五樓は大峴での拒守を勧めたが、超は「峴を越えさせてから鉄騎で踏み潰す」として応じず、太尉桂林王鎮は峴を出て平原で迎撃すべきと諫めたが超は従わなかった。超は「主上は劉璋に酷似している、今年国は滅び自分は死ぬだろう」と嘆いて鎮を投獄したが、裕が大峴に入ると赦して謝った。
- 超は臨朐で裕に敗れて広固に退き、裕に包囲された。広固では鬼が夜哭き、長さ十余丈の流星が城に落ちるなどの凶兆の中、城は陥ち裕は超を捕らえて建康の市で斬った。