魏書卷九十五 列傳第八十三 臨渭氐苻健

臨渭の氐、苻健(?–建国十八年)、字は建業。父苻洪の跡を継いで関中を制圧し、天王を称して前秦を建国、のち皇帝を自称した。子の生の暴虐を経て堅(苻堅)の代に華北統一を果たすが淝水の戦いで大敗、以後急速に瓦解し、丕・登・崇と続いた前秦は姚萇・乞伏乾帰らに滅ぼされた。

年表(7件)
  • 建国十四年天王を称し年号を皇始・国号を大秦とし、のち皇帝を自称する
  • 建国十八年健、死去。子の生が継ぐ
  • 夀光元年生、僭位。以後、虎狼が長安に跳梁するも対策を取らず暴政が続く
  • 建国二十二年堅、清河王法を殺し年号を甘露と改める
  • 建国三十八年堅、年号を建元と改め鄴を克して慕容暐を捕らえる
  • 太祖
  • 九年苻丕、皇帝を僭称し年号太安とする
  • 登国元年苻登、隴東で皇帝を僭称し年号太初とする

臨渭氐苻洪・苻健(前秦の建国)

  • 臨渭の氐、苻健、字は建業、本は略陽の出。祖の懷歸は部落の小帥。父の洪、字は広世、生まれる際に隴右で大雨が続き民が苦しんだため「雨若不止洪水必起」の謡に因んで洪と名付けられた。十二歳で父を亡くし部帥となった。
  • 劉曜は洪を寧西将軍とし、義侯として髙陸に徙した。氐王に進み、石虎が秦隴を平らげると石勒の表で冠軍将軍・涇陽伯となり、枋頭に徙されて光烈将軍・侯に進んだ。冠軍大将軍・西平公に進み梁犢の乱を平らげて車騎大将軍・開府儀同三司・略陽公となった。冉閔の乱で秦雍の民が西帰して洪を主に推し、十余万衆で大将軍・大単于・三秦王を自称したが、将の麻秋に鴆殺された。臨終、洪は健に「関中は周漢の旧都、進めば天下を一にし退けば秦雍を保てる」と遺言した。
  • 健は初め名を羆、字を世建としたが石虎の外祖張罷の名を避けて健と改めた。弓馬に優れ石虎に愛された。翼軍校尉・鎮軍将軍を歴任。京兆の杜洪が長安に拠り関中の雄俊が応じていたため、健は密かに関中を図りつつ枋頭で宮室を営み屯田を課して西意なきを装った。征西大将軍・雍州刺史を自称して西行、盟津で浮橋を架けて渡り、弟の雄・兄子の菁に潼関・軹関から進軍させ、自ら大衆を率いた。
  • 杜洪の将張光を撃破し、健は易の泰の卦(小往大来)を得て「これは漢祖の秦を屠る機だ」と長安に至って入都した。建国十四年、天王を僭称し年号を皇始、国号を大秦とし、まもなく皇帝を自称した。桓温が長安を伐って灞上に至ると健の弟雄が破り、温は東走、健は太子萇に追撃させたが萇は潼関で敗死した。関中は大飢饉となり蝗害が華澤から隴山にまで及び、牛馬は共食いし、虎狼が人を食らって道が絶えた。十八年、健は死に子の生が跡を継いだ。

苻生

  • 生、字は長生、健の第三子。祖父の洪から幼くして酷薄を嫌われた(片目で、洪が「瞎児一淚」とからかうと自ら刺して「これも一淚」と答え、鞭打たれても「刀矟には耐えるが鞭は嫌だ」と言い放つなど逸話が多い)。洪は健に「この子は狂悖だ、早く除くべき」と勧めたが、雄の取りなしで生かされた。長じて力は千鈞を挙げ、猛獣を素手で捕らえ奔馬を追いつくほどの武勇を誇った。
  • 健の長子が死に生母彊氏は末子の柳を望んだが、健は「三羊五眼」の讖に従って生を立てた。生は僭位して年号を夀光とし、諒闇中にも遊興し弓刃を帯びて朝臣に接し、錘鉗鋸鑿を側に備えた。即位間もなく后妃・公卿から僕隷まで五百余人を殺した。酒宴で酌を命じた尚書令辛牢が「彊いない」と言われて弓で射殺されるなど、百官は酒に溺れ冠を失うほどに恐怖した。
  • 長安に暴風や賊乱の流言が起こり門を五日閉ざす騒ぎがあり、生は虚言を伝えた者の心臓を刳り出させた。舅の彊平が切諫すると頭頂を鑿って殺した。虎狼が潼関から長安まで跳梁し、元年秋から二年夏までに七百余人を害したが、生は「野獣は満腹すれば止む、天が我を助け刑教を代行している」と対策を取らなかった。美男の尚書僕射賈元石を妻が気に入ったと誤解して誅殺、太医程延が「棗の食べ過ぎで他に病はない」と診断すると「なぜ棗と分かった、聖人ではないのに」と殺すなど、理不尽な誅殺が絶えなかった。
  • 太白が東井(秦の分野)を犯した凶兆に「渇を癒すだけだろう」と嘯き、長安の謡「東海大魚化為龍、男便為王女為公、問在何所洛門東」から東海苻堅(洛門の東に住む竜驤将軍)を疑って太師魚遵父子十八人を誅殺、また「百里望空城鬱鬱何青青、瞎人不知法、仰不見天星」の謡から諸々の空城をことごとく破壊させた。
  • 朝謁が長引くのを咎めた際「天下を統べて以来どんな評判か」と問い、「聖明宰世」と誉めた者は「媚びている」と斬り、「刑罰微過」と答えた者は「謗っている」と殺した。宮人と男女に殿前で裸で交わらせ群臣に見物させ、牛羊驢馬を生きたまま剥ぎ鶏豚鵝鴨を数十羽ずつ放って楽しみ、人の顔の皮を剥いで歌舞させるなど、勲旧・親戚もほぼ殺し尽くされ、脛を截り胎を刳り脅を拉ぎ頸を鋸くなどの惨刑が千を数えた。
  • 生が夜、侍婢に「阿法(苻堅)兄弟も信用できない、明日除く」と漏らすと、侍婢がこれを堅に告げ、堅と弟の融が壮士数百人で雲龍門に入り、宿衛の兵は武器を捨てて堅に帰した。堅は生を越王に廃し、まもなく殺した。

苻堅

  • 堅、字は永固、一字は文玉、雄の第二子。苻生を殺した後、位を兄の清河王法に譲ろうとしたが法は固辞し、堅は皇帝の号を去って天王を僭称し年号を永興とした。法を丞相・東海公としたがまもなく疑忌して殺し、年号を甘露と改めた(建国二十二年)。
  • 従弟の晋公柳が蒲坂で、魏公庾が陝で、燕公武が安定で、弟の趙公雙が上邽でそれぞれ反したがことごとく討平した。慕容垂が堅の下に奔った際、王猛は殺すよう勧めたが堅は従わなかった。三十八年、年号を建元と改め、朝貢の使者を送り、尚書令王猛に鄴を伐たせ自ら大軍を率いて続き、鄴を克して慕容暐を捕らえた。将の楊安に漢中を克させ蜀も平らげ、武衛将軍茍萇を西の涼州に遣わして張天錫を降し、子の長楽公丕に襄陽を克させた。
  • 堅は史書を検分して母苟氏と李威の姦通の記事を見つけ、恥じ怒って焼き捨てた。堅は司馬昌明(東晋)を南伐し、戎卒六十万・騎二十七万を動員、前後千里に旗鼓が連なり、項城に至った時凉州の兵はやっと咸陽に着いたほどの規模であった。弟の陽平公融が寿春を克し「賊は少なく捕らえやすい、逃げられるのを恐れる」と急使したため堅は喜び、大軍を項城に留めて軽騎八千で駆けつけた。
  • 堅は融と登城して謝石の軍を望み、八公山の草木が皆人の姿に見えたことから「これも強敵だ、なぜ少ないと言えようか」と恐れを抱いた。謝石が肥水に迫った苻融の陣に「少し退いて両軍が周旋する様を見ようではないか」と持ちかけ、融は撤退の隙を突いて渡河させ殲滅しようと軍を退かせたところ、統制がとれず大潰、融自身も落馬して殺された。謝石は青岡まで追撃し、堅は単騎で淮北に逃げた(謡に「堅不出項」とあったが、堅は諫言を聞かず項城を出て敗れた)。
  • 諸軍が潰える中、慕容垂の一軍だけが無傷で、堅は千余騎でこれに合流し洛陽まで衆十余万を収めたが、関に入る前に垂は二心を抱き、燕代・并州の巡撫を口実に堅の許しを得て離反、堅の驍騎将軍石越・鎮軍将軍毛当を鄴で攻めた。慕容泓が華沢で挙兵すると堅は子の叡・暉を遣わしたが泓に敗れ、長安で鬼が三十日夜哭く怪異があった。沖は堅の将姜宇を灞上で殺し、阿房に屯して長安に迫った。
  • 堅は城上から沖の勢いを見て驚き「爾ら群奴は牛羊を牧するのが分相応、なぜ死にに来る」と罵ったが、沖は「奴は奴だが奴の苦しみに飽きたのでお前に代わる」と応じた。堅が錦袍を贈って和睦を求める使者を送ると沖は「早く手を束ねれば苻氏を厚遇する」と返し、堅は激怒した。長安は大飢饉となり人が人を食い、姚萇が北地で叛いて沖と結んで長安を攻めた。烏の大群が城上で悲しく鳴く凶兆や「楊定健兒応屬我」の夜の叫び声、「堅入五将山」の謡もあった。
  • 堅は太子永道に「天が謡の通り自分を逃がすなら汝は戎政を統べて賊と争うな、自分は隴で兵糧を集めて援ける」と託し、衛将軍楊定を沖討伐に遣わしたが捕らえられ、堅自身は数百騎で五将山に出て諸州に救援を求めたが、永道は母妻宗室数千騎で武都に出奔し、司馬昌明の地に道を借りた。慕容沖が長安に入り、堅は五将山で姚萇の将呉忠に包囲された。衆は散り、堅は独り左右十数人と静かに待ち、宰人に食事を命じるほど泰然としていたが、捕らえられ夫人張氏・少女宝錦とともに萇の下に送られた。
  • 萇は堅を害そうとしたが、堅は生前の厚遇を思い「羌奴ごときに我が子を辱めさせるものか」と張氏に言い、まず宝錦を殺させ、萇はついに新平の仏寺で堅を縊り殺した。永道は昌明の下の江州に逃れ、桓玄に梁州刺史とされたがのち劉裕に誅された(永道の名は高祖の廟諱に触れるためこう表記する)。

苻丕

  • 堅の子丕、字は永敘。堅は丕を征東将軍・冀州牧・長楽公として鄴に鎮させたが、慕容垂の包囲を受け男女六万余口を率いて潞川に出た。堅の驍騎将軍張蚝・并州刺史王騰の助けで晋陽に入った。堅が姚萇に殺されると、太祖九年、丕は皇帝を僭称し年号を太安とした。王猛の子で幽州刺史の永も合流し、丕は永を司徒・録尚書事、張蚝を司空、王騰を司隷に任じ檄を飛ばして多くの応じを得た。
  • 丕は王騰に晋陽、楊輔に壺関を守らせ、四万で平陽に進み姚萇討伐を図ったが、慕容永が道を借りて東帰しようとしたのを拒み、「永は我が馬前で首を挙げる敵、なぜ許せようか」と怒った。丞相王永に討たせたが襄陵で大敗し王永は戦死、丕自身も数千騎で東垣に南走したが、司馬昌明の将馮該に殺された。

苻登・苻崇

  • 丕の族子の登、字は文髙、粗野で細行を修めなかったため堅には評価されなかったが、長じて書伝を修め堅に長安令とされたが事に坐して狄道長に落とされた。関中の挙兵に際し枹罕に走り、河州牧毛興を殺して衛平を安西将軍・河州刺史に推した群氐の下で長史となった。衛平が老齢を理由に廃されそうになった際、氐の啖青が「東の姚萇討伐が急務、衛公の耄碌より狄道長苻登を立てるべき」と説き、登を使持節都督・撫軍大将軍・雍河二州牧・略陽公に推した。
  • 登は衆五万で東下し南安に拠り、丕に使者を送って征西大将軍・開府儀同三司・南安王とされた。のち姚萇と胡奴阜で戦い大破したが、丕の死後、登国元年、隴東で皇帝を僭称し年号を太初、堅の神主を軍中に奉じ黄旗虎賁三百人で守らせ、鎧に「死休」の字を刻ませ全軍に戦死を覚悟させた。長矛鈎刃を用いた方円の陣法を駆使し無敵を誇った。萇の営を囲んでは「殺君賊姚萇出來」と哭き叫んだが萇は応じなかった。
  • 登が安定を攻めると萇はその輜重を襲い、登の妻毛氏を捕らえて娶ろうとしたが毛氏は萇を罵って殺された。登は萇の死を聞き「姚興ごとき小僧、杖で笞打ってやる」と喜び廃橋に向かったが水争いで姚興の将尹緯に敗れ、平涼に入り馬毛山に籠ったが、姚興に攻められ戦死した。子の崇は湟中に奔り皇帝を僭称し年号を延初としたが、まもなく乞伏乾帰に殺された。