魏書卷九十五 列傳第八十三 鐵弗劉虎
鐵弗の劉虎(?–昭成初)。南単于の苗裔で新興慮虒の北に拠り、当初北魏に臣従したが叛服を繰り返した。子孫は務桓・衛辰と続き、衛辰は太祖(道武帝)に討たれて夏を失ったが、その子屈孑(勃勃)が姚興の下で力を蓄えて自立し、赫連氏を称して大夏を建国、統万城に都した。屈孑の死後、子の昌・定が相次いで北魏・吐谷渾に敗れ、夏は滅んだ。
鐵弗劉虎とその後継
- 鐵弗の劉虎は南単于の苗裔、左賢王去卑の孫、北部帥劉猛の従子。新興慮虒の北に住んだ。北人は「胡父鮮卑母」を鐵弗と呼び、これを号とした。猛の死後、子の副崘が来奔し、虎の父誥升爰(一名訓兜)が部落を統べ、誥升爰の死後虎が継いだ(虎は一名烏路孤)。
- 当初国に臣従したが、部落が増えると兵を挙げて外叛し、平文帝が晋の并州刺史劉琨と共に討ったため虎は朔方に走って劉聡に帰附、聡は虎を安北将軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎将とした。虎が河を渡って西部を侵すと、平文帝がこれを迎撃して大破し、虎は塞外に敗走した。昭成初、虎が再び西部を侵すと帝はまた大破し、虎は死んだ。
- 子の務桓が部落を継ぎ帰順を申し出た(務桓は一名豹子)。種落を招集して諸部の雄となり、潜かに石虎と通じて平北将軍・左賢王に任ぜられたが死んだ。弟の閼陋頭が跡を継ぎ密かに反乱を謀った(詳細は序紀)が、務桓の子悉勿祈が閼陋頭を逐って自立、悉勿祈も死んだ。
- 弟の衛辰(務桓の第三子)が跡を継ぎ、子を昭成帝に朝献させ、帝は娘を衛辰に嫁がせた。衛辰は苻堅と通じ田を求めて内地に入り、堅の辺民を掠めて堅に献じたが咎められ、背いて国に帰順し堅を伐った。堅の将鄧羌に討たれ捕らえられたが、堅は朔方で衛辰を夏陽公として復帰させた。以後、国とは貢使を通じつつも誠意を欠いた。
- 帝が衛辰を討って部落の十六七を接収すると、衛辰は苻堅に奔り、堅に朔方に送り返された。昭成末、衛辰は苻堅を導いて南境を侵したが王師に敗れ、堅は国民を河を境に二分し、河以西を衛辰に、河以東を劉庫仁に属させた(詳細は燕鳳伝)。堅の没後、衛辰は西単于として河西の雑類を督摂し代来城に屯し、慕容永・姚萇からも都督の号を受けた。
- 登国中、衛辰は子の直力鞮を遣わして南部を侵し、太祖の軍五、六千は八、九万の衆に包囲されたが、太祖は車で方営を作って奮戦し、鉄岐山南で大破した。直力鞮は単騎で逃げ、牛羊二十余万を得た太祖は追撃して衛辰の居城悦跋城に至った。衛辰父子は驚いて逃走し、陳留公元虔が白鹽池で衛辰の家属を虜にし、将軍伊謂が木根山で直力鞮を捕らえ全軍を接収した。衛辰は単騎で逃げたが部下に殺され、首は行宮に伝えられた。馬牛羊四百余万頭を得た。
- 衛辰の第三子屈孑(勃勃)は薛干部の帥太悉伏の下に逃れた。
赫連屈孑(勃勃)の建国
- 屈孑、本名勃勃、太宗がその名を屈孑(卑下の意)と改めた。太悉伏は屈孑を姚興に送り、興の従弟高平公没弈干が娘を娶らせた。屈孑は身長八尺五寸、興に竒才と見込まれ驍騎将軍・奉車都尉に任ぜられ軍国の大議に参与、旧勲の臣を超える寵遇を受けた。興の弟濟南公邕が「屈孑は天性不仁で寵愛しすぎるのは危険」と諫めたが、興は「屈孑には済世の才がある」と用い続け、安遠将軍・陽川侯とし没弈干の高平鎮を助けさせ、義城・朔方の雑夷と衛辰の部衆三万を配した。邕は重ねて諫めたが興は聞かなかった。
- 屈孑は太祖末、没弈干を襲殺してその衆を併合、大夏天王を僭称し年号を竜昇とした。興はこれを悔いた。屈孑は鐵弗の姓を恥じ、赫連氏(「赫赫として天と連なる」意)と改め、支庶を鐵伐氏(宗族は鉄のように鋭く人を伐つに堪える意)と号した。
- 劉裕が長安を攻めると、屈孑は「姚泓など裕に敵わない、裕が去った後にこれを奪う」と喜び、裕が泓を破り子の義真に長安を守らせると、屈孑はこれを大破し、積んだ人頭で「髑髏台」という京観を築いた。灞上で皇帝を僭称し年号を昌武、統万に都した。長安を南都とし、性は驕虐で、都城を蒸土で築かせ、鉄錐が一寸でも刺されば作人ごと築き込んで殺した。兵器も検査して通らねば匠を斬り、鎧も同様とし、殺された工匠は数千人に及んだ。城上に弓剣を置き機嫌を損ねると自ら人を殺し、忤視する者は目を、笑う者は唇を刳り、諫める者は誹謗として舌を切ってから斬った。
- 長子の璝を廃そうとしたところ璝が長安で挙兵、屈孑の中子太原公昌がこれを破って殺し、屈孑は昌を太子とした。始光二年、屈孑が死に昌が跡を継いだ。
- 昌、字は還国、一名折、屈孑の第三子。年号を永光と改めた。世祖は屈孑の死と諸子の内訌を聞いて西伐し、輕騎一万八千で河を渡って昌を襲った。昌は敗れて西宮を焼かれ、翌日略奪で数万の生口と十数万の牛馬を得て世祖は帰還した。
- のち昌が弟の定を遣わして司空奚斤と長安で対峙させている隙に、世祖は再び西伐した。群臣は「統万城は堅固で十日で抜けない」と輕騎のみでの進軍を諫めたが、世祖は「軽騎で誘い出し一戦で擒にする」との策を説いて実行、黒水に陣し、羸弱を装って昌を城外に誘い出し、決戦で世祖自身が落馬しながらも尚書の斛黎ら十余人を斬り、流矢を受けながらも奮撃を止めず昌軍を大潰させた。昌は上邽に逃げ、統万城は陥落した。
- 世祖は屈孑が奢侈を好み壮麗な宮室(高さ十仭の城壁、彫刻と彩色を尽くした台榭)を築いたことを見て「これほど小さな国が民をこう使えば、亡びぬはずがない」と述べた。のち侍御史安頡が昌を捕らえ、世祖は昌を京師に迎え、始平公主を娶らせ假常忠将軍・会稽公・秦王に封じたが、謀反により誅殺された。
- 昌の弟の定(小字直獖、屈孑の第五子)は凶暴無頼で、昌の敗北後平涼で自ら尊号を称し年号を勝光とした。定は本国を偲んで泣いたが、狐の群れが鳴くのを見て凶兆とした。劉義隆と結んで恒山を境に東西を分けたが、始平公隗歸に将を破られ、世祖が親征して平涼を包囲すると、水草を断たれ窮した定は上邽に逃れたが、神䴥四年、吐谷渾の慕璝に襲われて捕らえられ、京師に送られ誅殺された。