謙徳の学者
- 字士休、斉郡益都の人。世父・賈元壽は高祖の代の中書侍郎で学行を称された。思伯は中書舎人・中書侍郎等を歴任し高祖に重んじられた。世宗の代、任城王元澄の鍾離攻囲で軍司を務め、澄の敗軍時に殿軍を務めて「儒者にも勇あり」と評された。
- 河内太守・滎陽太守・南青州刺史等を歴任。若い頃、弟の思同と共に北海の陰鳳に師事し学資を借りたが、後に絹百匹を贈って恩に報いた。給事黄門侍郎・涼州刺史等を経て衛尉卿となり、明堂建制を巡る議論に参与。
- 周礼考工記・戴德礼記・蔡邕説等を比較検討し、鄭玄の「明堂五室説」を支持する詳細な議論を上奏、これが採用された。太常卿・度支尚書等を歴任し、太保崔光の推挙で肅宗に杜氏春秋を進講した。謙虚な人柄で知られたが、元乂に取り入ったとの批判も受けた。孝昌元年(525年)卒去、贈鎮東将軍・青州刺史、贈尚書右僕射、諡は文貞。子・賈彦始は武定中淮陽太守。
賈思同――杜氏春秋の講説
- 賈思伯の弟、字士明。彭城王国侍郎から尚書考功郎・青州別駕等を歴任、滎陽太守として実政を敷いた。元顥の乱に際し広州刺史鄭光護と共に降伏を拒み、営陵県開国男(食邑二百戸)に封ぜられた。給事黄門侍郎・青州大中正等を経て静帝に杜氏春秋を進講、興和二年(540年)卒去。贈驃騎大将軍・尚書右僕射・司徒公・青州刺史、諡は文獻。
- 別駕在任中、崔光韶との確執の逸話(光韶が思同の下位に甘んじることを恥じ辞職、死後は思同がその贈諡を上表し人々に称賛された話)が伝わる。国子博士衛冀隆との杜氏春秋を巡る論争(六十三事の詰難と十一条の反駁)は決着せぬまま思同・冀隆共に没し、後継者らが論争を継いだが未だ裁定に至らなかった。