学者としての名声
- 字景文、北平無終の人。若くして学を好み群籍に博通、上谷の侯天護・頓丘の李彪と親交を結んだ。幽州刺史胡泥の推挙で祕書著作郎、仏道の史録編入を上奏。中書監髙閭・侍中李沖らの推挙で国子祭酒となり、高祖の講経に侍聴して帛百匹を賜った。
- 幽州中正在任中、郷人の財貨を受けた咎で免官。「昔は仕えずして人を羨まず、今は官を失って昔と何が異なろうか」と自ら省み、冀州で卒去、享年六十一。著述数千巻・字釈数十篇があったが未完のまま没し、従孫の陽承慶が『字統』二十巻としてまとめ世に行われた。
- 子・陽介(字天佐)は奉朝請・冀州黙曹参軍で早世。従子の陽鳴鵠・陽季智は共に幽州司馬として名を知られた。
陽尼の子孫(附伝)
- 陽季智の子・陽璠は通直散騎常侍。季智の従弟・陽荊は范陽太守として吏能があり贈平西将軍・東益州刺史。季智の従子・陽伯慶は汝南太守。
- 伯慶の従父弟・陽藻(字景徳)は太和初(477年頃)秀才に挙げられ、建徳太守・寧遠将軍等を歴任。孝昌中(525〜527年)郷里で賊帥・杜洛周に囚われ発病、永熙中(532〜534年)贈征虜将軍・幽州刺史。
- 陽藻の子・陽貞(字世幹)は早世。弟・陽弼(字世輔)は洛周陥城の際に南渡、邢杲の乱で殺害された、享年四十八。子・陽撝が祖爵を襲いだ。陽弼の弟・陽斐は武定末(550年頃)尚書右丞。
- 陽藻の従弟・陽令鮮は京兆王元愉の反乱に連座して除名。子・陽世和は武定末斉州驃騎司馬。陽藻の従弟・陽延興は南豳州刺史。
- 陽延興の従弟・陽固(字敬安)は俠を好み、二十六歳で学に転じて文才を得た。宋王劉昶に従軍中、昶の厳酷な統治を諌めて怒りを買い斬られかけたが、高祖に評価された。裴叔業帰順の際には元衎の司馬、給事中・治書として広平王元懐・汝南王元悦・南陽長公主・懐荒鎮将万貳らを弾劾する等、剛直な吏として知られた。
- 陽固は世宗に「早く東宮を定め、宗室を親任し賢良を挙げ、農桑を重んじ徭役を薄くすべき」とする長大な上表を献じたが、その頃世宗は仏道に傾き高肇が専権していた。陽固は『南北二都賦』を著し諷諌としたほか、中尉王顯の豪奢な邸宅・蓄財を厳しく批判して恨みを買い免官された。
- 免官後、幽微通塞の理を述べる『演賾賦』(河陽以来の一族の由来と自身の運命を述べ、古来の聖賢・忠臣・隠者の得失を歴史に照らして論じ、最後に隠棲と孝養に帰結する長編の賦)を著した。また讒言・寵幸を刺す詩二首(巧言令色の讒者を厳しく糾弾する内容)も作った。
- 肅宗即位後、尚書考功郎、僕射李平の行台七兵郎中として硤石の役で戦功、洛陽令として威風を示し母の喪では礼を尽くしすぎるほどであった。清河王懌の被害後もその喪に単身弔問し、游肇に「欒布・王脩にも勝る」と称賛された。正光四年(523年)九月、享年五十七で卒去。贈輔国将軍・太常少卿、諡は文。剛直で清廉、死後は家財も乏しかった。三子は陽休之・陽詮之ら。
- 長子・陽休之は武定末黄門郎。弟・陽詮之(字子衡)は才名があったが門生に殺害された。