魏書卷七十一 列傳第五十九 李苗
河陽の橋を断って忠死
- 字子宣、梓橦涪の人。父・李膺は蕭衍の尚書郎太僕卿。叔父・李略の養子となる。李略が蕭衍配下として蜀の益州を巡り讒言で殺害されたため、苗は十五歳で復讐の志を抱き、延昌中(512〜515年)魏に帰り伐蜀策を献じた。
- 高肇の西征に鄉導統軍として従軍、班師後は員外散騎侍郎。荊揚討伐(南朝討滅)を説く長大な上書を奉ったが肅宗に採用されなかった。正光末(524〜525年)二秦の反乱に際しては速戦を説く上書を献じた。
- 統軍として淳于誕と共に汾絳の蜀賊を討平、司徒司馬・太府少卿を歴任。尒朱栄の乱の中、河橋を断つべきと孝荘帝に進言し許可され、夜襲で火船を放って河橋を焼き落としたが、援軍が来ぬまま賊に包囲され戦死、享年四十六。帝は「苗が死なねばさらなる功を立てたであろう」と哀惜した。
- 贈使持節・都督梁益巴東梁四州諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・梁州刺史・河陽県開国侯(食邑千戸)、諡は忠烈侯。魏延を評した『蜀書』や周瑜伝を好んで論じたという逸話がある。城陽王元徽・臨淮王元彧に重んじられたが、両者の不和を諫めた。尒朱世隆は入洛後、苗の功で京師の破壊を免れたことを理由に贈封の追及を止めさせた。子・李曇は武定末に爵を襲ぐも齊の受禅で降格。
史論
寿春・南鄭は建鄴の要衝、成都の喉であった。裴叔業・夏侯道遷は時機を察して魏に帰順し、共に大功を立てた。裴植は徳器が志に及ばず、これが破滅を招いた。裴衍は才略を全うできず惜しまれる。李元護・席法友・王世弼・江悅之は他人の事業に乗じた面はあるが、果断の士であった。淳于誕は功名を立てる志を遂げた。李苗は文武の器を備え、艱難に際して忠義に殉じた人物であった。