魏書卷六十九 列傳第五十七 裴延儁

河東聞喜の人、字は平子。魏の裴徽の子孫で経史文才に優れ秀才に挙げられた。世宗に経学重視を上疏し、幽州刺史として督亢渠・戾陵堰を修復して治水と教化に功があった。荘帝の初め河陰の変で殺害された。一族には裴良・裴叔義・裴景融・裴瑗ら多くの官人を輩出した名族である。

年表(5件)

出自と若年

  • 裴延儁、字は平子、河東聞喜の人。魏の冀州刺史裴徽の八世孫。曾祖の裴天明は諮議参軍・并州別駕、祖の裴双虎は河東太守で没し平遠将軍・雍州刺史を追贈され諡は順、父の裴崧は州主簿・行平陽郡事で蜀賊丁蟲平定の功により東雍州刺史を追贈された。裴延儁は幼くして父に先立たれ継母に孝行で仕え、経史に通じ文才があり、秀才に挙げられ射策高第で著作佐郎を除され、尚書儀曹郎から殿中郎・太子洗馬に転じ本邑中正・太子友を兼ねたが、太子元恂の廃嫡で宮官の例により免ぜられた。まもなく太尉掾・兼太子中舎人を除され、世宗の初め散騎侍郎、雍州平西府長史・建威将軍を加えられ、入朝して中書侍郎となった。
  • 当時、世宗は仏典に専心し儒学を顧みなかったため、裴延儁は「堯・舜・光武帝・魏武帝もいずれも軍中・馬上で読書を怠らなかった、経史の学は補益広く一時も欠かせぬもの、陛下は仏の道を深く悟られたが、五経は治世の模範、六籍は俗の規範であり、物を訓えるには段階を踏むべき、経書も釈典も併せ用い内外を兼備すべき」と上疏して諫めた。司州別駕・鎮遠将軍を加えられ、明堂建立の詔で群官が議論した際、裴延儁は独り一堂の論を著し、太傅清河王元懌はこれを読んで笑い「あなたは僕射(元懌自身の見解)に近づこうとしている」と評した。兼太子中庶子を経て別駕に正任、冠軍将軍を加えられた。

幽州刺史としての治水と晩年

  • 粛宗の初め、散騎常侍・監起居注に還り前将軍を加えられ、平西将軍を加えられて廷尉卿に除され、平北将軍・幽州刺史に転じた。范陽郡には旧督亢渠(径五十里)、漁陽・燕郡には古い戾陵の堰(広袤三十里)があったが荒廃して久しく誰も修復できず、水旱の不順で民は飢餒に苦しんでいた。裴延儁はこれらの旧跡を疏通すれば成功すると見て造営を上表し、自ら現地を視察して地形を測り労力を分担させ、まもなく完成、灌漑面積百万余畝に及び利は十倍、百姓は今も恩恵を受けている。主簿酈惲に学校の再建も命じ礼教が広まり民はこれを歌謡した。在州五年、考績は天下最と評された。
  • 継母が裴延儁とともに薊にいた際に重病を患い、裴延儁は母を連れて京師に戻り療治にあたりたいと願い出て、都に着いてまもなく太常卿を拝した。汾州の山胡が地形を恃んで正平・平陽二郡を荒らし被害が甚だしかったため、裴延儁は兼尚書として西北道行台となり胡討伐諸軍を節度したが、まもなく病で召還された。三鴉群蛮が略奪をやめず車駕が親征しようとした際、裴延儁は病中に上疏して諫止した。
  • まもなく七兵尚書・安南将軍、殿中尚書に転じ中軍将軍を加えられ、散騎常侍・中書令・御史中尉、さらに本官のまま兼侍中・吏部尚書となった。裴延儁は台閣にあって職を守るのみで、決裁や糾察に積極的ではなかった。荘帝の初め、河陰で殺害され都督雍岐豳三州諸軍事・儀同三司・本将軍・雍州刺史を追贈された。子の裴元直は尚書郎中、弟の裴敬猷は員外常侍で兄弟ともに学識があり父と同時に殺害された。裴元直は光州刺史を追贈され、裴敬猷の妻は丞相高陽王元雍の外孫で、超えて尚書僕射を追贈された。

一族

  • 裴延儁の従叔・裴桃弓も郷里で評判があった。子の裴夙、字は買興は沈着で器識があり儀貌も立派で、孝文帝(高祖)もこれを異とし、司空主簿から尚書左主客郎中に転じた。吏部尚書任城王元澄は人を見る目があり裴夙の遠大さを称えた。孝文帝の南伐に行台吏部郎として従い、征北大将軍穆亮の従事中郎から河北太守に転じ、忠恕の統治で百姓に慕われたが四十三歳で郡にて没した。長子の裴範、字は宗模は早世、範の子・裴凝、字は長儒は武平鎮将で没した。範の弟・裴昇之・裴鑒、武定末に昇之は太尉掾、鑒は司徒右長史。
  • 裴延儁の従祖弟・裴良、字は元賓は今朝請から起家、北中府功曹参軍を経て世宗の初め南絳県令、并州安北府長史に累進し、中散大夫・領尚書考功郎中を経て、汾州吐京の胡族薛羽らの反乱に際し兼尚書左丞・西北道行台となり、別将李徳龍が薛羽に敗れると裴良は汾州に入り刺史汝陰王景和・李徳龍と数千の兵で籠城、賊が攻めても大都督章武王元融の援軍が敗れる中、裴良自ら陣頭に立って大破し賊将回成を斬った。さらに山胡を説得して馮宜都の首を斬らせた。山胡の劉蠡升が「聖術」を称して信奉者を集めると賊勢が再び強まったが、李徳龍が籠城放棄を提案した際、裴良は許さずこれを止めさせた。景和の薨後、裴良は汾州刺史・輔国将軍・行台のまま督された。援軍の高防も百里候で敗れ、以前貸し出した官粟が回収できず、飢饉で城民が人肉を食らうほどの惨状となり死者は十のうち三、四に及んだが、裴良は飢餓の中で城人とともに西河に逃れ、汾州の治所を西河に移した(西河を治所とするのはこれに始まる)。南絳の蜀(民族名)の陳双熾らが挙兵し「建始王」を号して大都督長孫雅・宗正珍孫らと対峙する中、裴良は州を解かれ慰労使となり太中大夫・本部中正に転じた。
  • 孝荘帝末、光禄大夫を除された。爾朱栄の死後、その従子爾朱天光が関西に勢力を張ると、裴良は持節・仮安西将軍・潼関都督、兼尚書・河東恒農河北宜陽行台としてこれに備えた。前廃帝の代、征東将軍・金紫光禄大夫、衛将軍、散騎常侍・車騎将軍・右光禄大夫、驃騎将軍・左光禄大夫を歴任、出帝末に汲郡太守、孝静帝の初め衛大将軍・太府卿となり、天平二年秋、六十一歳で没し使持節・都督雍華二州諸軍事・吏部尚書・本将軍・雍州刺史を追贈され諡は貞、さらに侍中・驃騎大将軍・尚書僕射を追贈された。子の裴叔祉は武定末に太子洗馬。
  • 裴良の従父兄の子・裴慶孫、字は紹遠は幼くして孤児となり倜儻で信義を重んじ、員外散騎侍郎から起家、正光末に汾州吐京の胡族薛悉公・馬牒騰らがそれぞれ王を称し数万の徒党を集めた際、裴慶孫は募人別将として郷豪を招き数千の戦士を集めて討伐、賊の攻勢を身先に立って撃退し雲台郊で大勝、直後を除された。その後、劉蠡升と絳蜀が連携し賊勢が再び盛んになると、裴慶孫は別将として軹関から進み斉子嶺で賊帥范多・范安族らを撃破して范多を斬り、二百余里深く進んで陽胡城に至った。この地が山河に囲まれた要衝であることから粛宗末に邵郡が立てられ、裴慶孫は太守・仮節・輔国将軍・当郡都督となり、賊乱後の逃散民を安撫し帰業させた。永安中に召還され太中大夫を除され、爾朱栄の死後、爾朱世隆が北へ渡ると裴慶孫は大都督として行台源子恭とともに追撃したが、世隆と密通していたことが露見し河内で追いつかれ斬られた、時に三十六歳。裴慶孫は任侠の気概があり郷曲の壮士や好事家が多く頼り、撫養して恩を施し、飢饉の年には四方から集まる百余人の遊客を家の糧で養った。武にたけながらも文人とも交わり財を軽んじ義を重んじたため座客が絶えず時人に称えられた。子の裴子瑩は永安中に太尉行参軍。
  • 裴延儁の従祖弟・裴仲規は経史を好み志節があり、奉朝請から起家、咸陽王元禧が司州牧となった際に主簿に招かれ建興郡事を代行、車駕が代から洛陽に還る際に境内で供応にあたり、孝文帝(高祖)から「朕は神畿を開いた、郡望の重い者を選んだが、卿は名邦を治める功をどう成すか」と問われ、裴仲規は「陛下が窮神尽聖して天に応じ民に従い都を遷された、臣は心力を尽くし呉会(南方)にも功名を刻む所存、一郡に留まりません」と答え、孝文帝は「その言に必ず応えよ」と笑った。車駕が河梁に至った際、咸陽王に「先日お前の主簿が南道の主人として六軍を豊かに供したこと、元弟としての務めに叶っていた」と語った。まもなく司徒主簿を除されたが父の病で官を棄てて赴き制違反で免官、後に中山王元英の義陽征伐に統軍として引かれ本資を回復、陣中で戦没した、時に四十八歳。河東太守を追贈され諡は貞。子がなく弟裴叔義の次子伯茂を後継とした(伯茂は「文苑伝」に見える)。
  • 裴叔義も学行があり、孝文帝末に兗州安東府外兵参軍から太山太守に累進し清静な統治で吏民に慕われ、司空従事中郎に遷り正光五年夏、五十七歳で没し征虜将軍・東秦州刺史を追贈され諡は宣。子の裴景融、字は孔明は篤学で文を好み、正光初め秀才に挙げられ射策高第で太学博士を除され、永安中に祕書監李凱がその才学を上奏して著作佐郎とされ、輔国将軍・諫議大夫に累進し領著作、出帝の代に孝荘帝の諡議に携わりこれが施行された。四部要略の撰述を命じられたが完成せず、元象中に儀同高岳の録事参軍となり、弟の裴景顔が廷尉獄に係る中、裴景融は吏部の選で郡候補となったが御史中丞崔暹に貪昧な出世欲を弾劾され免官、武定四年冬に五十歳で没した。裴景融は卑退廉謹で当世に競わず、才は学識に及ばなくとも編纂には倦まず、文詞は多いが理会に乏しい所作が多いと評され、著述は別に集録があり「鄴都晋都賦」も作った。裴景顔は学才があり汝南王開府行参軍から起家、孝荘帝の初め広州防蛮別将・行広漢郡事となり、元顥の洛陽入城時に刺史鄭先護とともに義兵を挙げ乱後の鎮定に功があり保城子を賜り、太尉従事中郎・諮議参軍に累進、孝静帝の初め司空長史に転じたが在官中に貪汚があり武定二年、中尉崔暹に劾せられ廷尉に付されたが病で獄中で没した、四十五歳。
  • 裴仲規の弟の子・裴伯珍は襄威将軍・員外散騎郎・西河太守を経て孝静帝の初め平東将軍・滎陽太守で在官のまま没した、三十二歳。本将軍・雍州刺史を追贈された。
  • 裴延儁の族子・裴礼和は員外散騎侍郎から起家、謁者僕射に遷った。身の丈九尺、腰帯十囲で衆中に立てば異彩を放ち、陳留太守に出、金紫光禄大夫で没した。
  • 裴延儁の族兄・裴聿、字は外興は貞立な操で孝文帝に見込まれ、著作佐郎から北中府長史に出た。孝文帝は裴聿と中書侍郎崔亮が共に清貧であることから優待し、崔亮を野王県令に、裴聿を温県令に帯びさせ、時人はこれを栄とした。尚書郎に転じ太尉諮議参軍に遷り、平秦太守に出て没し冠軍将軍・洛州刺史を追贈された。子の裴子袖は関西で没した。
  • 裴延儁の族人・裴瑗、字は珍宝は太和中に河北郡に分属し、幼くして孤貧の中で清苦を貫き自立した。太守司馬悦に中正に招かれ、司馬悦が別将として義陽を征する際に中兵参軍として引かれ、朝夕勤勉に仕えて司馬悦に見込まれ、軍の帰還後に奉朝請を除され給事中に転じ、汝南王元悦の郎中令となった。元悦は国俸を得ると一日で気ままに分与する散費癖があり、裴瑗はその都度多く受けず少なく辞退することで元悦が窮すれば貢いで補い、元悦の性が変わらぬままでもその奉仕を愛でられた。元悦が太尉に遷ると従事中郎に、驍騎将軍に転じ、粛宗末に汝南太守に出るが赴任せず太原太守に転じた。粛宗崩御後、爾朱栄が初めて洛陽入りを図った際に裴瑗はこれに参画し五原県開国子・食邑三百戸を賜り、まもなく并州事を代行、平北将軍・殷州刺史に転じ、孝静帝の初め衛将軍・東雍州刺史を除され、興和元年、七十三歳で没した。子の裴夷吾は武定末に徐州驃騎府長流参軍。