魏書卷六十五 列傳第五十三 李平

字は曇定、頓丘の人。彭城王元嶷の長子(?–熙平元年)。孝文帝・世宗に仕えて地方官を歴任し、京兆王元愉の反乱を平定して冀州を鎮定、のち西硤石の役では崔亮・李崇を統率して趙祖悦を降した。高明果断な人物として国政を補佐した重臣である。

年表(2件)
  • 熙平元年冬死去。侍中・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈され、諡は文烈公
  • 武定二年子の李諧、四十九歳で死去した

出自と冀州赴任まで

  • 李平、字は曇定、頓丘の人。彭城王元嶷の長子で若くして度量が大きく、群書を渉猟し礼易を好み文才もあった。太和の初め通直散騎侍郎を拝し孝文帝の厚遇を受け、大喪に服して孝行で称された。降爵の後に彭城公を襲爵し、太子中舎人・散騎侍郎兼舎人・太子中庶子を歴任、自ら郡政に当たりたいと申し出て孝文帝に「また吏事を試みたいのか」と言われつつ長楽太守に任じられ善政を敷いた。孝文帝の南伐に冀州儀同開府長史として従い声望を得て正長史・太守を兼ね、河南尹も代行し豪右権貴に憚られた。世宗即位後、黄門郎・司徒左長史・行尹を経て正尹・長史となった。
  • 車駕が鄴に幸そうとした際、李平は「洛陽の造営は十年を経てなお未完で、代の民は移住で財を使い果たし、農作も休まる暇がない今、行幸すれば民の負担が更に増す」と諫めたが聞き入れられず、本官のまま相州事を代行、世宗の鄴幸に際し邸に幸を受けた。刺史に正任され、征虜将軍を加えられ、農桑を勧め太学を整え通儒を選んで五郡の聡明な子弟に教授させ、孔子と七十二子の像を堂に描いて自ら讃を作った。以前の台使が賄賂を取っていたのを戒めるため、客館に虎の尾を踏み薄氷を踏む図を描いて頌を注し戒めとした。平東将軍を加えられ、長兼度支尚書、のち正尚書・領御史中尉・冀州刺史を務めた。

京兆王元愉討伐と冀州平定

  • 京兆王元愉が信都で反乱を起こすと、李平は使持節・都督北討諸軍事・鎮北将軍・行冀州事として討伐に向かった。世宗は式乾殿で「愉は朕の弟だが不軌の心を起こした、大義滅親、周公の故事に倣い専征の任を卿に委ねる」と涙ながらに諭し、李平は「大宥が既に敷かれた以上、まず戦わずして服させることを図り、なお迷う者は天威をもって討つ」と答えた。
  • 進軍中、経県で蛮兵数千が夜襲して矢が李平の帳に及んだが平然として動じなかった。冀州城南十六里に至り、賊が済州軍の柵を攻めるのを見て諸将は戦を渋ったが、李平自ら陣中に入って重賞を約すと士卒は奮い立ち逆軍を大破、元愉は落馬したが臣下の一人が馬を譲って死闘し、王師は勝勢で城門まで追い城を包囲・放火、元愉は百余騎で城門を突いて逃げたが統軍叔孫頭が追撃し信都から八十里の地で捕らえ、冀州は平定された。世宗は兼給事黄門侍郎元梵を遣わして慰労し、召還後は本官のまま相州大中正を領した。
  • 李平はかつて尚書令高肇や侍御史王顕に恨まれており、王顕が李平に代わって中尉となると、李平が冀州在任中に官口を隠匿したとして高肇とともに讒言し除名させた。延昌の初め、詔で官爵と冀州平定の功が復せられ、以前からの良賤争訟の未決を、真偽を問わず景明年間以前を基準として一括処理し訴訟を鎮めた。武川鎮の民が飢えた際、鎮将任款が許可なく倉を開いて賑恤したため免官されそうになると、李平は「款の心は民を救うにあり悪意はない」と奏し、世宗もこれを赦した。
  • 中書令・尚書を兼ね、粛宗の初め吏部尚書・撫軍将軍に転じた。李平は高明で果断だったが性急さを難とされた。尚書は任城王元澄に命じて冀州平定の功を山河の賞に酬いるよう奏させ、霊太后は武邑郡開国公・食邑千五百戸・縑二千五百疋を授けた。

西硤石の役と晩年

  • 蕭衍の左遊撃将軍趙祖悦が西硤石を奪って寿春に迫り、鎮南将軍崔亮が攻めても落とせず李崇とも不和になったため、詔で李平は本官のまま使持節・鎮軍大将軍・兼尚書右僕射・行台として東西の諸軍を節度することとなり、乖異あれば軍法で処すと命じられた。長子の李奬にも通直郎が授けられ、父子ともに縑帛・紫納金装衫甲・縑布・絳衲襖を賜って家庭で拝受し、見る者はこれを栄とした。
  • 李平は歩騎二千を率いて寿春に赴き、西硤石を巡視して虚実を把握、崔亮・李崇に水陸両面の備えを厳命して期を合わせて攻めさせ、両将は憚って従った。連日の交戦で賊軍をたびたび破り、安南将軍崔延伯が下蔡に橋を架けて蕭衍方の援軍将・王神念・昌義之の進撃を阻むと、趙祖悦は孤城を死守した。李平は攻撃を差配し、崔亮に西面、李崇に東面から水軍を進めさせ、南北から鼓噪して攻め上ると賊は動揺し、外城を屠って将士は次々帰順、趙祖悦は残兵で南城に籠って徹夜の攻防の末に明け方降伏、斬られてその首は洛陽に送られ捕虜も多数に上った。
  • 功により尚書右僕射・散騎常侍を加えられ将軍位はそのまま、召還後は霊太后に宣光殿で謁見して金装刀杖一口を賜った。南徐州が蕭衍による淮水の堰による水害を上奏した際、公卿が議論する中で李平は「兵力を用いずとも自然に決壊する」と述べ、実際に淮堰が破れると霊太后は喜んで群臣を宴に招き、李平に簫管を前で鳴らすよう命じ、粛宗も手ずから縑布百段を賜った。
  • 熙平元年冬、没した。薄葬を遺命し、詔で東園祕器・朝服一具・衣一襲・帛七百疋が下賜され、霊太后は東堂で哀悼の儀を執り行い、侍中・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈し諡は文烈公。李平は度支尚書時代から公事に精励して十余年を機密の職に処し、獻替(諫言)で称えられ、詩賦・箴諫・詠頌を著して別に集録があった。

子李奬・李諧

  • 長子の李奬、字は遵穆。容貌魁偉で当世の器量があり、太尉参軍事から通直郎・中書侍郎・直閤将軍・吏部郎中・征虜将軍・安東将軍・光禄大夫・吏部郎中を歴任、本官のまま尚書を兼ねて撫軍将軍・相州刺史に出た。元乂の専権時代は側近として重用されたが、霊太后の親政再開で官爵を削られ、孝荘帝の初め散騎常侍・鎮東将軍・河南尹となり、明晰な政務で知られた。元顥の洛陽入城時、元顥に兼尚書右僕射として徐州の羽林・城人の慰撫を命じられたが、命に従わなかった者に殺され首を洛陽に送られた。
  • 出帝の代、李奬の旧属・通直散騎常侍宋游道が上書して弁護し、「李奬は北海(元顥)に敗れた際、他の公卿は従属したが李奬は一族百口とも都に留め置かれ逃れられず、やむなく南朝との連絡を取ったに過ぎず、当時の世論もこれを是とした。徐州刺史元孚も同様の状況にあったが咎められなかった。元顥討滅後、便乗した者が誣告して李奬は罪に問われ処刑された。功を論じる者は辺境の人心を慰めるためと言うが、それは実情ではない。かつて鄧艾を叚灼が、馬援を朱勃が弁護した故事に倣い、恩赦の及ばぬ李奬にも贈官を賜り、その霊を慰めてほしい」と訴え、詔で衛将軍・冀州刺史を追贈された。子の李構は武定末に太子中舎人を襲爵し、斉の受禅で爵は例により降された。構の弟・李訓は太尉黙曹参軍。
  • 李奬の弟・李諧、字は虔和。風流閑潤で博学、文辯に優れ当時の才俊に敬われた。父の前爵・彭城侯を受け、太尉参軍から尚書郎・徐州北海王元顥撫軍府司馬を経て長兼中書侍郎となり、崔光に引かれて兼著作郎となったが史職では特筆すべき事績を残さなかった。輔国将軍・相州大中正・光禄大夫、のち金紫光禄大夫・衛将軍を加えられたが、元顥の洛陽入城で給事黄門侍郎とされ、元顥敗死とともに除名された。
  • 除名後、李諧は「述身賦」を著し、休咎禍福が予測しがたいこと、自らが名門に生まれ若くして仕官し、伯父(李平)の南征に従って辛苦を経たこと、元顥の擁立から敗滅までの動乱に翻弄され、東方へ逃れて濮陽に辿り着き、王師の勝報を聞いて安堵したこと、その後内侍・優加を受けたが政変のたびに立場を翻弄され、洛陽陥落の後に故郷に戻って自ら省み、名利を求めず天寿を全うしたいと願う心境を綴った。原文には数箇所に判読不能の欠字がある。
  • 孝静帝の初め母の喪に遭って帰郷、魏尹将軍として召されたが禫制未了を理由に固辞し朝議もこれを優遇して許した。蕭衍が通和を求めた際、朝廷は李諧を兼散騎常侍・聘使主に選んだ。石頭で蕭衍の主客郎范胥が応接した折、李諧は范胥の官職の格や北地の寒暖、鄴と洛陽のいずれが正統か、金陵の王気の説など機知に富んだ問答を交わし、いずれも巧みに切り返した。蕭衍自身も李諧に「魏朝の人材の多寡」を問い、李諧は「大丞相渤海王(高歓)、汝陽王元叔昭、尚書令元世儁、左僕射司馬子如、右僕射高隆之、侍中高岳、侍中孫騰」ら文武の逸材を挙げて答え、蕭衍は「なれば幼主の輔弼も安泰であろう」と評し、江南でもその才辯が称えられた。
  • 帰国後、大司農卿・驃騎将軍を加えられ祕書監に転じたが中風に倒れ、武定二年、四十九歳で没し、時人に惜しまれた。驃騎大将軍・衛尉卿・斉州刺史を追贈され、著した文集は別に集録され世に伝わった。長子の李嶽は武定末に司徒祭酒、嶽の弟・李庶は尚書南主客郎。
  • 李諧の弟・李邕、字は修穆。若くして俊爽な才があり、著作佐郎・高陽王元雍の友として交遊した者はみな年長者ばかりで才藻を称えられたが、二十五歳で没し鎮遠将軍・洛州刺史・諡文を追贈された。

史論

  • 史臣は「邢巒は文武の才と策略をもって軍国の任に当たり、内には機密に参画し外には要地を任され、時勢を切り開く器であった。李平は高明な才幹をもって時に智を尽くし、出処進退・在官の功名ともに顕著で、まことに国政を補佐する英傑であった」と評した。