北魏亡命と高祖への進言
- 字恭懿、琅邪臨沂の人、司馬衍丞相・王導の後裔。父・奐は蕭賾の尚書左僕射。肅は聡明で経史に通じたが、蕭賾に父・兄弟を殺害され、太和十七年(493年)建業から北魏へ亡命した。
- 高祖は鄴で肅を引見し、治乱の道を語り合って深く意気投合、蕭氏の危滅の兆しと南征の好機を進言され、南征の構想を固めた。以後、高祖は肅を重用し、夜を徹して二人だけで語り合うこともあった。
- 輔国将軍・大将軍長史に任じられ、開陽伯の爵を固辞して許された。蕭鸞の義陽討伐に際し募兵の特権を与えられ、平南将軍として義陽で戦功を挙げ万余の降兵を得た。
- 高祖は肅を高く評価し続け、久しく喪に服し続ける肅を古の礼に照らして服喪の終了を促す詔を下した。太和二十年(496年)の旱魃の際、輟膳した高祖に対し肅は「聖人の徳と旱は関係ない」と説き、その夜に雨が降ったという逸話が残る。
軍功と高祖崩御後の重用
- 裴叔業を破った功で鎮南将軍に進み、豫南兖東荆東豫四州諸軍事都督・汝陽県開国子に封じられたが固辞、高祖はこれを許さなかった。
- 太和二十二年(498年)漢陽平定後、高祖は父の仇・黄瑶起を討てないことを憂う肅を伍子胥になぞらえて慰めた。
- 淮北戦線では劉藻らの敗戦を受け、渦陽救援を巡って高祖と詳細な軍略のやり取りを交わし、義陽の囲みを解いて渦陽に赴き裴叔業を退けたが、劉藻の敗北の責を負い平南将軍に降格された。
- 高祖の崩御に際し遺詔で尚書令に任じられ、咸陽王禧らと共に宰輔となった。喪の運営を主導し、任城王澄との確執(澄は肅が新参ながら自分の上に立つことを不満とした)があったが、誣告は釈明された。陳留長公主(劉昶の子婦)を娶り、財を賜った。
- 裴叔業の壽春帰順に伴い車騎将軍として彭城王勰と共に十万の軍を率い、蕭懿・李叔獻らを撃破し合肥を陥落させた。世宗はこれを労い、開府儀同三司・昌国県開国侯に封じた。
- 揚州刺史として辺境の民心収攬に努め、清廉で聲色を絶ったが、やや軽佻で功名を誇る面もあったと評される。景明二年(501年)壽春で薨去、享年三十八。世宗は深く哀惜し、東園祕器・銭帛を厚く賜い、杜預・李冲の墓の間に葬るよう命じた。贈侍中・司空公、諡は宣簡。
王肅の子孫(附伝)
- 子・紹は太子洗馬等を歴任、贈輔国将軍・徐州刺史。紹の子・遷は武定中通直常侍。紹の弟・理は孝静初に帰朝、武定末著作佐郎。
- 肅の弟・秉(字文政)は幽州刺史等を歴任、贈征虜将軍・徐州刺史。
- 肅の長兄・融の子・誦(字国章)は文才と風格に優れ、給事黄門侍郎として詔書を朗読する際の見事な音調で称賛された。孝荘初、河陰の変で殺害、享年三十七。贈驃騎大将軍・尚書左僕射・司空公・徐州刺史、諡は文宣。
- 誦の弟・衍(字文舒)は度支尚書等を歴任、尒朱仲遠の乱で捕らえられるも名望により害されず、後に解放。天平三年(536年)卒去、享年五十二。贈驃騎大将軍・尚書令・司徒公・徐州刺史、諡は文献。故人の遺族を長年扶養するなど厚情の人であった。
- 肅の次兄・琛の子・翊(字士游)は元义と婚姻を結び左将軍・済州刺史等を歴任、永安元年(528年)卒去、享年三十七。贈侍中・衛将軍・司空公・徐州刺史。