魏書卷六十三 列傳第五十一 宋弁

才学による立身

  • 字義和、広平列人の人。祖・愔は員外散騎常侍として江南に使いし、興安五年(456年)卒去、贈安遠将軍・相州刺史、諡は恵。父・叔珍は李敷の妹婿で、李敷事件に連座して死去。
  • 弁は才学に優れ、若くして尚書李沖に「一日千里の王佐の才」と評された。李彪と親交を結び、著作佐郎・尚書殿中郎中を歴任。高祖の朝会で若くして応対の見事さを評され「弁」の名を賜った(「和氏の璧」の故事に因む)。
  • 中書侍郎として蕭賾へ使いし、蕭子良・王融らに評価されたが、志気は李彪に及ばず、体裁の和雅さでは勝ると評された。散騎侍郎に転じ、高祖の問いに対し「蕭氏には大功がなく、逆取りして順守できていない、必ず滅びる」と南朝滅亡を予言した。
  • 車駕南征に司徒司馬として従い、軍紀を厳正に保った。黄門郎崔光の推挙を辞退されつつも重用され、司徒左長史として銓衡(人事評価)を担当したが、名門への私怨から悪評を流す一面もあり、旧族の不満を招いた。
  • 豫州での軍政・農事の兼営を進言する等の実務にも当たったが、高祖に領軍職を固辞する際「常侍は黄門の粗冗、領軍は二衛の仮摂に過ぎない」と説かれ、辞退を撤回した。
  • 李沖と李彪の対立では彪を援護し、高祖の病篤い際には彭城王勰ら少数のみが近侍する中、弁だけが涙を流して見舞い、高祖に重んじられた。祠部尚書・七兵事を兼摂し、高祖崩御に際し遺詔で吏部尚書・輔政の任を受けたが、既に先立って卒去、享年四十八。贈安東将軍・瀛州刺史、諡は貞順。
  • 家格を誇る一面があり、高祖に「郭祚の家格に及ばぬ」と言われても認めず、高祖と彭城王勰が「良い人物だが家格にこだわるのは惜しい」と評した逸話が残る。

宋弁の子孫(附伝)

  • 長子・維(字伯緖)と次子・紀(字仲烈)は共に才学あるも軽薄と評された。清河王懌の下で仕えたが、元义の専横に絡み懌を讒言で陥れる計に加担、後に義を欺いた行いを咎められ流された。父・弁が生前「維は険しく紀は智慧に欠け家を亡ぼすだろう」と評した通りになったという。
  • 維はのち復職するも、元义の党として除名され、清河王懌への誣告の罪で鄴にて賜死。
  • 弁の弟・機は本州治中。子・寳積は中散大夫で卒去。
  • 弁の族弟・穎は涼州刺史時代の逸話(亡妻の夢告)が伝わる。穎の族弟・燮は北方の元愉討伐で功を挙げた。燮の族弟・鴻貴は不正が露見し斬刑に処された。

史論

古人は「才は古人の半ばに満たずして功はそれを超える」と言うが、それは決して空言ではない。王肅は流寓の身でありながら一度の対面で見出され、時勢に乗じて栄達したのは見事というべきである。子・誦と翊もその家風を絶やさなかった。宋弁は才幹によって知られ、顧命の重責に与ったことは、抜きん出た存在であった証であろう。子孫が振るわなかったことは惜しまれるが、断絶までには至らなかったのは幸いであった。