魏書卷六十二 列傳第五十 高道悦
剛直な諫臣
- 字文欣、遼東新昌の人。曽祖・策は馮跋の散騎常侍・新昌侯、祖・育は馮文通の建徳令であったが、世祖の東征に際し一族五百余家を率いて帰順、建忠将軍・二郡太守を賜った。
- 道悦は中書学士・侍御主文中散を経て治書侍御史・諫議大夫となり、厳正な姿勢で知られた。南征の徴兵の期日違反を弾劾する等、上位の任城王澄・尚書左丞公孫良らの過失も遠慮なく上奏した。兄・観の縁座を澄に指摘されたが、恩宥により不問となった。
- 高祖は道悦の忠篤さを評価し「その謇諤の誠は汲黯・鮑宣にも劣らない」として主爵下大夫・諫議大夫に留任させた。
- 鄴への遷都に際し、水路での行幸のために舟艫を新造する計画に対し、道悦は上表して陸路の安全性と資源の浪費を理由に反対、高祖はこれを一部認め陸路を選んだ。
- 太子中庶子となり厳格な姿勢で宮官を畏憚させたが、太和二十年(496年)秋、太子・恂が平城への還帰を密かに謀った際、道悦のたび重なる諫言を恨んだ恂に禁中で殺害された。
- 高祖は深く悲しみ散騎常侍・帯管州刺史を追贈、諡は貞侯。世宗も忠節を追録し、長子・顕族に給事中を授けた。
高道悦の一族(附伝)
- 長子・顕族は忠厚で知られ、右軍将軍で卒去。
- 顕族の弟・敬猷は蕭寶夤の驃騎司馬となったが、寶夤の謀反に際し行台郎中・封偉伯らと共に義挙を図るも露見して殺された。贈冠軍将軍・滄州刺史。
- 道悦の長兄・嵩は魏郡太守。嵩の弟・雙は貪汚により免官・復官を繰り返し、幽州刺史時代にも貪穢を咎められたが赦されまもなく卒去。雙の弟・観は西征中に戦死し、通直散騎侍郎を贈られ、諡は閔。
史論
李彪は微族の出身ながら才志確固として太和の世に抜擢され、その声望は江南にまで及び、良史たるにふさわしい筆力を持った。しかし直言を貫くあまり術策を欠き、晩節は不遇に終わった。百里を行く者が九十里で半ばとするというが、彪はまさにそれであった。高道悦の匡直の風はその厳格さゆえに世に憚られ、正しさゆえに禍を招いたのは、悲しむべきことである。