魏書卷五十七 列傳第四十五 高祐
高祐(字は子集、?–499年)は勃海の人、司空高允の従祖弟。博学で異獣・古印の鑑定など博識ぶりを示し、祕書令として国史編纂の体裁を建議し、地方官としては学校・共同施設の整備や治安策で治績を挙げた。卒後、上命に従わなかった経緯から諡は「霊」とされた。
年表(1件)
- 太和二十三年499年卒す。詔により諡を「霊」とされる
出自と初仕
- 高祐、字は子集、小名は次奴。勃海の人。本名は禧、咸陽王と同名のため高祖が改名した。司空高允の従祖弟。祖父の展は慕容宝の黄門郎、太祖が中山を平定すると京師に内徙し三都大官で卒した。父の讜は世祖に従い赫連昌を滅ぼし功により游撃将軍を拝命し南皮子の爵を賜り、崔浩と共に著作に参与し中書侍郎に遷り給事中・冀青二州中正に転じ、仮の散騎常侍・平東将軍・蓨県侯として高麗への使者となり卒し、安南将軍・冀州刺史・滄水公を追贈され諡は康。祐の兄の祚は爵を継ぎ東青州刺史。
- 祐は書史を博渉し文字雑説を好み、性は通放で小節にこだわらなかった。初め中書学生を拝命し博士侍郎に転じ、下邳郡の群賊を招いた功により建康子の爵を賜った。高宗末、兗州東郡の吏が異獣を得て献上し、時人は識る者がなかったが詔で祐に問うと「これは三呉に産する鯪鯉という、他の地域には無い、我らがこれを獲たのは呉楚の地からの帰化があるだろう予兆」と答えた。また零丘で玉印を得て献上した際も、祐は「印上の籀書二字は『宋寿』とあり、寿は命である、我らがその命を得たのはこれも帰服の徴」と述べた。顕祖の初め、劉義隆の子義陽王昶が来奔し薛安都らが五州を挙げて降附した際、時人は祐の言が的中したと評した。
国史編纂の建議
- 高祖は祐に祕書令を拝命させた。後に丞李彪らと上奏して国史編纂の体裁について論じた。尚書は記言の体、春秋は録事の辞であるとし、司馬遷・班固の史体を参照して紀伝・表志の体裁で編むべきこと、始均以来の遠い時代は史が伝わらないため皇始以降の事跡から着手すべきこと、著作郎以下から才用ある者を選び国書編纂に参与させれば三年で成るだろうという建議であった。高祖はこれに従った。
- 高祖は水旱の災いを止め豊作をもたらす方法を問い、祐は「堯湯の運も陽九の会は避けられなかった、賢を旌し政を佐け民の時を敬授すれば災いは消え豊かさが至る」と答えた。盗を止める方法についても宋均・卓茂の徳治の故事を引き「宰守が貞良であれば盗は止む」と答えた。祐はさらに上疏し、選挙が職務の優劣でなく年労の多寡のみで決められている現状を批判し「才を尽くして挙げるべき」と論じた。また勲旧の臣について、才が撫民に適さない者には爵賞を加えるべきで方任を委ねるべきではないと論じた。高祖はみなこれを善しとし、給事中・冀州大中正を加えた。
地方官としての施政
- 持節・輔国将軍・西兗州刺史として仮の東光侯を授けられ滑台を鎮めた。祐は郡国に太学があっても県党には学舎がないとして、県に講学を、党に教学を、村に小学を立てさせ、また一家ごとに碓を、五家ごとに井戸を共同で造らせ婦人が舂米や水汲みに出歩かないよう命じた。また五五の相保の禁賊策を設け、盗が発生すればその連座を及ぼした。初めは煩雑に見えたが後に風化が大いに行われ寇盗は止んだ。
- 宋王劉昶の傅に転じ、律令制定の功により帛五百匹・粟五百石・馬一匹を賜った。昶はその官が旧く年も長じ雅な相互尊重の中で、妓妾の類を多く贈った。光禄大夫を拝命し傅はそのまま、昶が薨じた後宗正卿に徴されたが祐は彭城に留連し久しく赴かなかった。尚書僕射李沖が祐の逗留を奏したため処刑三歳贖論と裁定されたが詔で赦され光禄に復した。
晩年
- 太和二十三年(499年)卒し、太常は諡を「煬侯」と議したが詔は「上命に従わなかったことを霊と言う」として諡を「霊」とした。
子孫(和璧・顥・雅・諒系)
- 子の和璧、字は僧寿は学問があり中書博士で早世した。和璧の子の顥、字は門賢は学識と時誉があり、司空参軍から員外郎に転じ建康子の爵を継ぎ、符璽郎中に遷り冀州別駕に出仕しようとしたところ刺史元愉が州に拠って反した。世宗は尚書李平を都督に遣わし討たせ、平は顥をその州の領袖として録事参軍・統軍に引き、軍機の取捨に多く参決した。愉を擒えた後、別党千余人が処刑されようとしたが顥は「擁され逼られただけの徒は前もって赦免を許されていた、表して陳ずるべき」と述べ平はこれに従い、多くが助命された。事が定まると顥はなお職務を続け、軍旅の後の飢饉に対し寛静を旨として時誉を得た。陵江将軍を加えられたが事に坐して免ぜられ、久しくして鎮遠将軍を除せられ輔国将軍・中散大夫に遷り征虜将軍に転じ中散のまま49歳で卒し、平東将軍・滄州刺史を追贈され諡は恵。子の徳正は爵を継ぎ武定中黄門侍郎。
- 顥の弟の雅、字は興賢は風度があり給事中からしだいに司徒府録事参軍・定州撫軍府長史に遷り34歳で卒し、天平中に散騎常侍・平北将軍・冀州刺史を追贈された。子の徳乾は早くから令問があり任城太守で卒した。
- 雅の弟の諒、字は修賢は若くして好学で博識強記、喪に居ては孝で聞こえた。太和末、京兆王愉が開府し召された際、高祖が佐官を厳選し諒は隴西の李仲尚・趙郡の李鳳起らと同時に選ばれ、太尉主簿・国子博士に遷り、正光中に驍騎将軍を加えられ徐州行台となり彭城に至った時、元法僧の反乱に逼られ同調を迫られたが諒は許さず法僧に害された、享年41。朝廷は痛惜し左将軍・滄州刺史を追贈し、さらに「臨危授命、誠節重んずべし」として使持節・平北将軍・幽州刺史を重贈し帛二百匹を賜り一子の出身を優待し諡は忠侯とした。三子あり、長子の惠勝は武定中司徒外兵参軍。諒は親表譜録四十余巻を作り五世以下内外を尽くし、見る者はその博記に感服した。
子孫(欽・次同系)
- 祐の弟の欽は幼くして従叔の済に随い劉義隆への使者となり、還って中書学生となり祕書中散に遷り40余歳で卒した。子の法永は諸王従事中郎でこれも早世した。
- 祐の従父弟の次同は永安末に撫軍将軍・定州刺史。子の乾邕は永熙中司空公・長楽郡開国公。乾邕の弟の敖曹は天平中司徒公・京兆郡開国公。