魏書卷五十五 列傳第四十三 㳺明根
㳺明根(字は志遠、?–499年)は廣平任県の人。游雅の推薦で世祖に中書学生として抜擢され、貞慎寡欲で経典に精通した人柄により歴代の帝に重んじられた。大鴻臚卿・尚書等を歴任し、致仕後は三老五更の礼で厚遇された。子の肇(字は伯始)も学識と剛直な性格で世宗・粛宗に仕え、権臣元乂の霊太后廃位の議に一人抗言したことで知られる。
年表(3件)
- 太和二十三年499年自宅で卒す、享年81
- 正光元年八月520年肇、元乂の霊太后廃位の議に一人抗言し署名せず、69歳で卒す
- 孝昌元年525年肇の子の祥、36歳で卒す
出自と初仕
- 㳺明根、字は志遠、廣平任県の人。祖父の鱓は慕容熙の楽浪太守、父の幼は馮跋の下で仮の広平太守となり、和竜で明根を得て郷里に帰った。游雅の推薦により世祖は明根を中書学生に抜擢した。性格は貞慎寡欲で経典に精通した。
- 恭宗監国の時、公孫叡とともに主書となった。高祖践祚後、都曹主書に転じ安楽男の爵位・寧遠将軍を賜った。高祖はその小心敬慎を常に称賛し、員外散騎常侍・冠軍将軍・安楽侯を仮に授け、劉駿への使者として派遣し明僧暠と対応させた。前後三度の使いで駿はその長者ぶりを称え送迎の礼を厚くした。
- 顕祖の初め本将軍のまま東青州刺史となり員外常侍を加えられ、散騎常侍・平東将軍・都督兗州諸軍事・瑕丘鎮将に転じ、まもなく東兗州刺史を拝命、新泰侯に爵位を改めた。政治は清平で新しい民もよく従った。高祖初め給事中となり儀曹長に転じ散騎常侍を加えられ、清約恭謹で称職とされた。
外交と致仕
- 王師の南討の際、詔により仮の安南将軍・儀曹尚書・広平公として梁郡王嘉とともに軍計に参与した。後に兗州の民が叛いた際、詔により明根が慰喩し、南征の沔西・仇城連口の三道諸軍は明根の節度を受けた。都に還り正尚書となり散騎常侍を加えられた。
- 蕭賾との使者を絶って多年経ったので通交すべきか群臣に議させた際、尚書陸叡は三呉・荊梁の乱を理由に停止したが今は静まったので再開すべきと述べ、明根は「使者を絶つのは朝廷の事だが、醴陽を侵したことの理は蕭賾にある。今使いを遣わすのが理に適う」と述べ、高祖はこれに従った。
- 文明太后が崩じた際、群臣が固く公除(喪の短縮)を請い、高祖と明根が往復した経緯は礼志に見える。大鴻臚卿に遷り河南王幹の師・尚書のままとされ、慣例により侯から伯に降爵された。律令制定に参与し、しばしば直言を進めた。
- 七十歳を超え致仕を求める表を出したが詔で許されず、しばしば固請してようやく詔で明根の風度・志尚を称え辞去を許した。高祖は明根を引見しその歴仕・徳を称え、明根は涙を流して忠誠を述べた。高祖は青紗単衣・委貌冠・被褥・錦袍等を賜った。
五更としての厚遇と卒去
- その年、司徒の尉元を三老、明根を五更として辟雍で行礼した(元伝に見える)。歩挽一乗を賜り上卿の禄・食を給し、太官が月ごとに送った。律令制定の功により布帛一千匹・穀一千斛を賜った。明根が広平に帰る際、絹五百匹・安車一乗・馬二匹・幄帳被褥を賜った。
- 車駕が鄴に行幸した際、明根は行宮に朝し、詔で「游五更、光素蓬簷、帰りて郷里に終わる、朝の旧徳・国の老成というべし」と称え帛五百匹・穀五百斛を賜り、太官に珍羞を送らせた。後に車駕が再び鄴に行幸した際も朝謁し穀帛を賜り、甲第を造らせた。国に大事あるごとに璽書で諮問し、旧疾が発すれば手詔で見舞い太医に薬を送らせた。
- 太和二十三年(499年)、自宅で卒す、享年八十一。世宗は使者を遣わし弔祭し、賻銭十万・絹三百匹・布二百匹を賜り、光禄大夫・金章紫綬を追贈し、諡は靖侯。
- 明根は内外の官職を五十余年務め、身を仁和をもって処し、人と接するに礼譲をもってし、時論はこれを貴んだ。高祖の初め、明根と高閭は儒老の学業により特に礼遇され公私の出入りに常に相従ったが、閭は才筆をもってしばしば明根を侮り、世に「高游」と号された。子の肇が爵を継いだ。
㳺肇――高祖・世宗期の仕官
- 肇、字は伯始、高祖が名付けた。幼くして中書学生となり経史・蒼雅・林説に博通した。高祖の初め内祕書侍御中散、司州が初めて建てられると都官従事となり、通直郎・祕閣令に転じ、散騎侍郎・典命中大夫に遷った。車駕の南伐に際し肇は上表して諫止したが高祖は納れず、まもなく太子中庶子に遷った。
- 肇は謙虚で敦重、文雅を以て任じられ、父の老いを理由に官を解いて扶侍することを求めた。高祖は禄養を遂げさせるため本州の南安王禎の鎮北府長史・魏郡太守とし、王が薨じると高陽王雍の鎮北府長史・太守となり、政は清簡で二王を歴佐し声望があった。父の喪により数年官を解いた。
- 景明末、廷尉少卿に徴されたが固辞し、黄門侍郎を授けられ散騎常侍・黄門を兼ね、侍中を兼ねて畿内大使となり黜陟・賞罰を明らかにした。太府卿に転じ廷尉卿に遷り御史中尉を兼ね黄門はそのままとした。肇は儒者として名教を重んじ、直繩に挙げるところは風俗を損なうものではなく、法を持すること仁平で断獄は矜恕を務めた。
- 尚書令高肇は世宗の舅で百僚に畏れられていたが、肇の名が自分と同じなのを嫌い改名させようとした。肇は高祖に賜った名を守り許さず、高肇は甚だ怒ったが、世宗はその剛直を嘉した。
㳺肇――諫言と直節
- 盧昶が朐山にいた際、肇は「朐山は小地で海浜の低湿地であり我が方には急務でなく賊には利がある」として無益であると諫めたが、後に昶は敗れた。侍中に遷った。
- 蕭衍の軍主徐元明がその青冀二州刺史張稷の首を斬り郁洲をもって内附した際、朝議は援兵を送ろうとしたが肇は「朐山・郁洲はともに低湿の地で無用の地であり、賊に近く我に遠いので利がない、新附の民を安んじるべきで労役すれば怨みが生じ叛意を生む」として反対したが世宗は納れなかった。
- 大将軍高肇の蜀討伐に際しても肇は「遠人服さざれば文徳をもってこれを来す、兵は凶器でやむを得ずして用いる、蜀は地険しく城主の帰服による征伐でなければ成功しない」と諫めたが世宗は納れなかった。
- 肅宗即位後、中書令・光禄大夫・金章紫綬・相州大中正に遷り、使持節・散騎常侍・鎮東将軍・相州刺史として出仕し恵政があった。太常卿に徴され尚書右僕射に遷ったが固辞し、詔で許されなかった。肇は吏事の断決が速くなく、主者の諮呈に反復論議し理解できなければ再三に及んだが、理を窮めてから筆を下した。寵勢の干請にも動じない方正な操を人々は服した。
- 領軍元乂が霊太后を廃し太傅清河王懌を害しようとした際、公卿を集めて議したが群官は失色し旨に順ったのに肇一人抗言して不可とし、最後まで署名しなかった。正光元年(520年)八月、69歳で卒した。詔で東園祕器・朝服一襲・帛七百匹を賜り、粛宗は朝堂で哀を挙げた。使持節・散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈され、諡は文貞公。
㳺肇――人物と著作、子孫
- 肇は外は寛柔、内は剛直で経伝を好み手から書を離さず、周易・毛詩を治め三礼に特に精通し、「易集解」を著し「冠婚儀」「白珪論」を撰し、詩賦・表啓凡そ七十五篇はみな世に伝わった。謙廉で人と競わず、かつて「儒碁」を撰してその志を示した。清貧で欲少なく俸禄のみに頼った。肇が廷尉であった時、世宗はかつて私かに肇に寛恕を命じたが肇は執って従わず「陛下自らこれを恕すべきで、臣に曲筆させるべきではない」と言った。その執意はこのようであった。
- 粛宗の初め、近侍の群官で奉迎に与った者は侍中の崔光以下みな封邑を加えられた際、肇は文安県開国侯・邑八百戸に封じられたが、「子が父の位を襲うのは古今の常であり、これによって封を得ればどう身を処せばよいのか」と固辞し受けず、論者はこれを高しとした。
- 子の祥、字は宗良は学があり、祕書郎を歴任し新泰伯の爵を継ぎ、通直郎・国子博士・領尚書郎中に遷った。粛宗は肇がかつて文安の封を辞したことにより再び祥を封じようとしたが、祥は父の意を守り受けなかった。また肇が前に清河王懌の議で正を守り屈しなかったことを追論し、祥を高邑県開国侯・邑七百戸に封じた。孝昌元年(525年)、36歳で卒し、征虜将軍・給事黄門侍郎・幽州刺史を追贈され、諡は文子。子の皓、字は賔多は爵を継ぎ侍御史となったが早世した。皓の弟の安居は爵(新泰伯)を継ぎ、武定中に司空墨曹参軍となり、斉の受禅により爵は例により降された。
- 明根の叔父の矯は中書博士・濮陽鉅鹿二郡太守で卒し、冠軍将軍・相州刺史を追贈された。矯の孫の馥は国子博士。馥の弟の思進は尚書郎中。