魏書卷五十四 列傳第四十二 高閭

高閭(字は閻士、?–502年)は漁陽雍奴の人。本名は驢であったが司徒崔浩に才を見出され改名された。文明太后・高祖(孝文帝)に仕え、中書令として詔令・書檄・碑銘を多く手がけ、淮北討伐や俸禄廃止に反対する上表、長城築造の提案など政策論に長じた。剛毅果敢で文章に優れ、高允とともに「二高」と並び称された。

年表(5件)

出自と抜擢

  • 高閭、字は閻士、漁陽雍奴の人。五世祖の高原は晋の安北軍司・上谷太守で、薊に碑がある。祖父の高雅は若くして名声があり州別駕であった。父の高洪、字は季願、陳留王の従事中郎であったが、閭が貴くなったため寧朔将軍・幽州刺史を追贈され固安貞子とされた。
  • 閭は幼くして孤児となり若くして学を好み経史に博通し、文才に優れ筆を執れば文章をなした。本名は驢であったが、司徒崔浩がこれを見て奇才とし、閭と改名し字を与えた。
  • 真君九年(448年)中書博士に召され、和平末に中書侍郎に転じた。高宗が崩じ乙渾が権力を専断し内外が危惧した際、文明太后が臨朝して渾を誅し、閭を中書令高允とともに禁中に引き入れ大政を参決させた。安楽子の爵位を賜り南中郎将を加えられ、鎮南大将軍尉元とともに南して徐州へ赴いた。閭は先に彭城に入り管籥を収め、元の上表により本官のまま東徐州刺史を領し張讜と対等に団城を鎮めた後、京城に還った。功により侯に爵位を進め昭武将軍を加えられた。

至徳頌

  • 顕祖が位を譲り崇光宮に移った際、閭は上表し頌を奉った。堯舜の禅譲・太伯の譲位の故事を引き、太上皇帝の道徳・武功・南北に及ぶ威徳を称え、「至徳頌」一篇を作って献じた。
  • 高允は閭の文章の豊かさを見込み自らの後任に推薦し、閭は顕祖に知られるところとなり、しばしば引見され政治の議論に参加した。「鹿苑頌」「北伐碑」の作成を命じられ、顕祖はこれを善しとした。永明初、中書令となり給事中を加えられ機密を委ねられた。文明太后は閭を重んじ、詔令・書檄・碑銘・賛頌はみな閭の文であった。

淮北討伐諫言と俸禄論

  • 太和三年(479年)淮北討伐の軍を出すにあたり、閭は上表して四つの疑問を述べた。すなわち盛世に兵を動かすべきでないこと、淮北五城は攻守の力が懸隔していること、遠征は費損が多いこと、意にかなわねば長く屯衆することになる懸念である。文明太后は「六軍は電のごとく発し朽ちたものを摧くようなもの」として聞かず出兵させた。
  • 尚書に遷り中書監となった。淮南王他が旧来どおり俸禄を止めるよう求め、文明太后が群臣に議させた際、閭は表して君臣の礼・爵禄の等差の意義を論じ、俸禄を廃せば貪残の心が生じ士人が姦を肆にすると述べ、俸禄廃止に反対した。詔は閭の議に従った。

忠佞問答

  • 高祖は王公以下を皇信堂に引見し忠佞の弁別を問うた。尚書游明根は「爵人は先に官を試し官を定めてから禄を与え、三載の考績で忠佞が明らかになる」と答え、閭は袁盎・晁錯・張禹・石顕の例を挙げて忠佞の見分け方を論じ、高祖は「忠功が顕われれば忠と言い、佞跡が成れば佞と言うが、史官は成事に拠って書くのみで、未然の前を問うている」と応じ、両者は政・事の別(子夏が莒父の宰となった故事)についても問答を交わした。

長城築造論

  • 閭は上表し「為国之道」の五要(文徳・武功・法度・防固・刑賞)を論じ、北狄対策として六鎮の北に長城を築くことを提案した。周・趙・秦・漢の四代の長城の故事を引き、六鎮の北を計十万人・一月の功で長城を築けば、罷游防の苦・放牧の安・以逸待労・省境防・省逰運の五つの利があると述べた。任将の道についても、信を委ね礼を尽くすべきことを付言した。詔は「安辺の策」を評価し面談を約した。
  • 高祖は群臣に蠕蠕討伐を議し、左僕射穆亮は討伐を主張したが、閭は「南に胡寇があり深入りすべきでない」として反対、高祖もこれに同意し停止した。蠕蠕への国書作成において、蠕蠕に喪があったのにこれを書かなかったため高祖に叱責され、閭は罪を認め免冠して謝罪した。高祖は蠕蠕使者牟提の厚遇を評し、旨書で牟提の忠を明らかにするよう命じた。

政道問答

  • 冬至に高祖・文明太后が群官を饗し、高祖自ら太后の前で舞い群臣も舞った後高祖が歌い、閭は寿を上げる言葉を進めた。
  • 皇信堂での議論で高祖が百揆について問うと、閭は太皇太后の十八条の令や孔子・子産の政治の故事を挙げて答え、法と刑の別、政と事の別についても高祖と問答した。

旱害への上表

  • 太和十四年(490年)秋、閭は上表し春夏の少雨・饑饉を憂え、太皇太后の徳を称え、北鎮への配慮・京師の獄の整理・非急の労役の停止等を提言した。詔はこれを施行させた。
  • 後に太常の雅楽・金石の整備に関わり、広陵王の師となり鎮南将軍・相州刺史に転じ、律令制定の功により布帛千匹・粟一千斛・牛馬各三を賜った。閭は呉討伐の策を上疏し高祖はこれを納れた。

遷都・南征諫言

  • 洛陽遷都に際し閭は遷都に十の損があるとして鄴への遷都を求める表を上げたが、高祖はこれを嫌った。蕭鸞の雍州刺史曹虎が投降を請うたため劉昶・薛真度ら四道の南伐が詔され高祖自ら懸瓠に行幸した際、閭は洛陽が草創で虎の質任もなく誠意がないとして軽挙を諫めたが高祖は聞かず、結果虎は虚偽で諸将は無功に終わった。
  • 高祖が鍾離を攻めて剋てず淮南に故城を修めて鎮戍を置こうとした際、閭は璽書で意見を求められ、夀陽・盱眙・淮陰の三鎮を落とせぬまま留守すれば危険であると論じた長大な上表を奉った。
  • 車駕が石済に還った際、閭は朝見し高祖と兵の少なさ・遷都の是非・封禅の可否について問答した。閭は司馬相如が封禅を見られなかった故事を引き封禅を勧めたが、高祖は南方が未平定であるとして退けた。

晩年

  • 鄴に至った高祖は閭の州館にしばしば行幸し、詔で功績を称え帛五百匹・粟一千斛・馬一匹・衣一襲を賜った。閭は本州(幽州)への赴任を求め、平北将軍に降号され幽州刺史に転じた。閭は諸州が従事を廃し府に参軍を置く制度の不便を上表したが高祖は聞かず、致仕を求めたが許されず太常卿に徴された。
  • 高祖の漢陽討伐に際し閭は回師を求める上表をしたが聞かれず、漢陽平定後に璽書を賜り閭は謝表を奉った。世宗践祚後、閭はしばしば遜位の表を上げ、詔により宗伯を解かれ光禄大夫・金印紫綬を授けられ、散騎常侍兼吏部尚書邢巒が自宅に赴いて拝授した。辞去の際東堂で引見され肴羞を賜り大政について諮問された。世宗は先朝の儒旧が告老することを流涕して惜しみ、詔で歴官六朝・著勲五紀を称え安車几杖・輿馬・繒綵・衣服・布帛を厚く賜り、百官がこれを送り二疏(漢代の疏広・疏受)の故事に比された。閭は北邙に登り闕を望み恋慕の意を表した。
  • 景明三年(502年)十月、自宅で卒し、世宗は使者を遣わし弔慰し賵帛四百匹を賜った。四年(503年)三月、鎮北将軍・幽州刺史を贈られ、諡は文侯。
  • 閭は文章を好み、軍国の書檄・詔令・碑頌・銘賛は百余篇にのぼり三十巻に編まれた。その文は高允の流れを汲み、後世「二高」(高允・高閭)と並び称された。剛毅果敢で直言を好んだが、私室での発言は聞かれる程度で、朝廷の広衆の中では議論が鋭く敵う者がなかった。高祖はその文雅の美をもって常に優遇した。ただし貪欲で驕慢な面もあり、中書にいた当初は諸博士を罵辱し、博士・学生百余人が求めることがあれば財貨を受けぬことはなかった。しかし老いて二州の刺史となってからは廉倹謹直に改め、良牧の誉れを得た。

子孫

  • 長子の元昌は爵を継ぎ遼西・博陵二郡太守に至った。その子の欽、字は希叔は文学の才があり、莫折念生の反乱の際、欽は元志に従い西討して志が敗れ賊に捕らわれ、念生に黄門郎とされ秦州で死んだ。その子の穆宗は祖父の爵を継ぎ興和中に定州の開府祭酒となった。欽の弟の石頭・小石はいずれも早世した。
  • 元昌の弟の定殷は中塁将軍・漁陽太守で卒し、征虜将軍・安州刺史を贈られた。その子の洪景は名誉少なくして早世、次子の宣景は武定中に開府司馬となった。定殷の弟の幼成は員外郎となり文才があったが、性は清狂で奴に害された。
  • 閭の弟の悦は篤学で閭に美なるところがあったが早世した。

史論

  • 史臣曰く、游雅の才業もまた高允に亜ぐものであった。ただ陳奇を族滅に陥れたことは、その世を絶やし祀られなくなった所以である。高閭は発言に章句あり筆を下せば文彩に富み、一代の偉人であった。よく歴朝に用いられ重んじられ、高祖の下で官を辞す際は礼が手厚く整った。美事というべきである。