魏書卷五十二 列傳第四十 張湛

張湛

張湛、字は子然、一字は仲元、敦煌の人、魏の執金吾張恭の九世孫。湛は弱冠で知名、涼土で好学能文、冲素で大志があり沮渠蒙遜に仕え黄門侍郎・兵部尚書となった。涼州平定後に入国した時すでに50余歳で、南浦男に叙爵し寧遠将軍を加えられた。司徒崔浩は湛を識ってこれを礼し、浩は「易敘」に「国家が河右を西平した際、敦煌の張湛・金城の宗欽・武威の叚承根の三人はみな儒者で儁才があり西州に称えられた、常に私と易を論じ、私は左氏伝の卦をもって解いていたが、遂に互いに勧め合って注を作ることになった、それゆえ退朝の余暇にこれを解いたのだ」と述べ、湛はこのように称された。湛は京師に至ってからは家貧しく食も満たなかったが操を守り欠けることなく、崔浩は常にその衣食を給し、湛は毎年浩に詩頌を贈った。浩は常に報答したが、浩が誅されると湛はこれを恐れてすべて焼き捨てた。湛の兄の懐義は閑粹で才幹があり母の喪に遭って哀毀は人に過ぎ、服喪を終えても麁糲な食を改めず、征西参軍で卒した。長子の広平は高平令。